久しぶりに道徳教育の文科省資料について書きたい。「きまりは何のために」という文章だ。久しぶりなので繰り返すが、私が書く文章は、この教材を使って、このような授業をすればよいということではなく、あくまでも、大人として、この教材を読んでの感想である。教師も大人なのだから、まずは、一人の大人として教材を解釈する必要があると考えるからである。(https://www.mext.go.jp/component/a_menu/education/detail/__icsFiles/afieldfile/2011/03/29/1303863_26.pdf)
さて、「きまりは何のために」という文章は、最初は、国会議事堂を見学する場面から始まり、そこでは、学校で起きたルール違反について反省するきっかけになる。
明が、自分たちで決めたルールを破ったことだ。それは、放課後の校庭の使用は、下級生から始まって、上級生に移っていくというルールだが、明は、当日発売のゲームの購入に間に合うように、下級生の時間帯に遊んで、ゲームの購入に間に合った。しかし、ルールを守ったために、ゲームを変えなかった浩が抗議する。「遊ぶ権利」とか「買った者勝ち」などの話がでていたが、次の日からルールを破る人がたくさん出た。「塾にあわせて遊ぶ」「テレビの時間にあわせて」などと勝手なことをいう人がでてきた。そして、とうとう、上級生のけったサッカーボールに一年生があたってしまうという事故がおき、校庭を使えなくなってしまう。
そして、国会議事堂の見学になるわけだ。そこで、国の大事な規則を作っているという話を聞いて、学校で起きたことを反省し、もう一度考えなおそうと決意したところで終わっている。
いかにも道徳の教科書にのるような話だ。しかし、いかにも道徳的であることによって、それだけ説得力のない話に受け取れる。この話を子どもたちが、本気に受け取って、学校に要求をだしたら、学校は受け入れるのだろうか。
まず校庭の使い方を、小学生がルールを作るかということ。
「校庭のきまりだって、たしか学級で話し合って、代表委員会に提出して決まったんだよね。」「そうだよ、ぼくは代表委員として校庭遊びのことを提案したんだ。」というやりとりがあるから、子どもたちが提案してきまった規則であることが、明確に書かれている。
中学ですら、生徒が校則を作ることは、ごく稀にしかない。また、中学生以上には、学校運営への参加権を認めているヨーロッパの国は珍しくないが、それでも、小学生には認めていない。つまり、前提そのものが、非現実的だ。現実的なのは、一年生がけがをしたら、直ちに、校庭の使用が禁止されたということだけだ。もちろん、これは校長や教師がそのように実施したのだろう。しかし、そのあと、「健一はもう一度みんなできまりについて話し合ってみようと思いました。」
もちろん、校庭の使い方に関して、小学生にルールを作らせることは、私はよいことだと思う。私が校長だったから、子どもが主体的に使用するようなものについては、子ども自身に使い方を決めさせることは、使い方をきちんと守るようにさせる意味でも有効だろう。しかし、実際にそんなことをしている学校はまず皆無なのだから、皆無のことを前提にした話をつくって、それで考えさせても、どういう意味があるのか。もし、こうした教材を資料として、ホームページに掲載し、これを教材として学ぶことを、当然奨励しているということなのだろうから、文科省は、ひょっとして、校則などを、小学生でも子どもたちが関わって制定することを、容認どころか、奨励しているのだろうか。もしそうなら、けっこうなことだが。
次に、国会を見学して、ルールの大切さを感じるという設定だ。小学生なら素直にそのように考えるのかも知れないが、大人であれば、国会のいい加減さのほうが、先に意識されてしまう。丁度昨日書いたように、日本の国会は、欧米の議会に比べて圧倒的に審議時間が少なく、しかも、その審議時間が、与党に多く割り当てられていて、実質的な審議があまり行われない。そういう事実を大人なら知っている。だから国会をみて、ルールやそれを決めることの重要さを意識するというのに、白々しいものを感じてしまう。
もっとリアリティをもてるような教材にするためには、一年生が上級生の球を受けて、怪我をしたことを重点にし、そのことで起きたこと、担任や校長に叱られる、怪我した親から抗議を受ける、ルールを決めたときのことを確認する、などを詳しく書き、そういうなかで、反省していくというようにしたほうがいいのではないかと思われる。
あるいは、この教材に示された、子どもが校則を制定するという方針を、本当に導入することだろう。