選択的夫婦別姓論議が新たな局面を迎えているようだ。自民党のなかにも、賛成する人がけっこう出てきていることが要因だろう。野田聖子氏が重要なポストについたことも影響しているのだろう。また二階幹事長が、選択的夫婦別姓に違和感かないとも表明している。他方、自民党内に、選択的夫婦別姓をあくまで反対するためのグループ(絆を紡ぐ会)などか結成されるなど、賛否両方の動きが活発になっている。
海外で、日本のように、法律によって夫婦が同一の姓を名乗ることを原則的に規定していく国は、ドイツやオーストリアなどごくわずかなようだ。http://www.hirokom.org/minpo/siryo01.html
日本でも、同一姓を名乗ることか規定されたのは、明治からになってからのことであり、もともと、江戸時代までは、庶民には姓が存在しなかったのだから、同一姓などは問題外であったし、女性の場合にも、ほとんど名前だけで呼ばれていたのではないだろうか。歴史的に有名な女性は、それに対して、むしろ生家の姓を名乗っていることが目立つ。北条政子や日野富子など。明治になって、戸主を管理の対象とした家族制度を創設する際に、家族はすべて同じ姓をもつということにしたわけだ。したがって、同一姓というのは、日本の伝統的な制度でもないし、あくまでも戸主を絶対とする家族制度の名残りである。そして、それは女性が独立して社会に出て活躍することを想定しないシステムでもあった。もちろん戦前にも、社会的に名前を知られる形で活躍する女性はいたが、やはり、少数だった。
しかし、戦後女性の活躍が当たり前のことになれば、途中で名前が変わる不便さは避けたいのが当然だろう。
自民党の二階幹事長は、女性が職業的・社会的に進出すれば、自然と別姓となる。違和感はないと述べ、時間をかけて議論すればよいという立場を表明した。二階氏の母親は医者で、別姓的であったが、違和感はなかったという。自民党の重鎮の男性までが賛成派になったというのは、時代が進んだということだろうか。
しかし、自民党の議論をみていて、不思議に思うのは、自民党の有力女性議員とみなされている人たちの多くが、選択的夫婦別姓の容認に強固に反対している点である。片山さつき、高市早苗、山谷えり子等だ。いずれも党内右派と言われる人たちだ。彼女らは、11月に、自民党内に「絆を紡ぐ会」というグループを設立し、選択的夫婦別姓に反対の声をあげた。
山谷氏は、通称をどこでも使えるようにすれば不便ではない。通称ではなく、姓そのものを違うようにすると、戸籍にふたつの違う姓が記されることになる。だから問題だという。山谷氏も長年通称を使っているが、まったく不便は感じないと述べているが、自分が不便ではないといって、他の人も不便を感じるはずがないとでも言うのだろうか。私が勤めていた職場にも、通称で働いている女性が何人かいた。ほぼすべての領域で通称が認められていたのではなく、給与や保険、税金等は、戸籍名で、教育や研究上では通称容認だったと思う。当初通称で働き始めた女性が現れたときに聞いたときは、そうだったが、その後広められたかどうかはわからない。税金や保険、あるいは遺産相続などの手続でも通称が認められているのだろうか。ネットで検索しても、あまりヒットしないのだが、おそらく、現在の時点では無理だろうと思われる。実際に会社で通称を使用している人たちの書き込みを見ると、金銭関係の書類は、戸籍名による人が圧倒的である。
山谷氏たちの主張が、税金、保険、預金等の部分にまで、通称が及ぶことを主張しているなら、それは別姓とどこが違うのだろうか。そこまでは及ぼす必要はないというのであれば、実際に通称を幅広く認められている人でも、そういう領域での不便さを訴えている人も多いのである。(使い分けが気にならないという人もいる。)
私自身は、選択的夫婦別姓には、当然賛成だが、もうひとつ加えてほしいことがある。もともと、姓とか名前とかは、自分でつけたわけではない。どんなに嫌な姓や名前であっても、変えることは通常できない。よほどの事情があれば、裁判所に訴えて認められることがあるようだが、例外的だ。かつて、大久保清という名前の人が、史上稀に見る凶悪犯罪者の名前と一致していたので、変更が認められた事例がある。しかし、これは例外だ。結婚して、あらたな戸籍がつくられるとき、これまでは夫婦どちらかの姓に統一したわけだが、新しい姓を創ることも認めるべきではないかと思うのだ。
別姓に反対の人たちは、父と母の姓が違うと、子どもが混乱する、ひとつの家としての統一感がないなど、批判があるが、ふたりで揃って新しい姓になれば、そういうこともなくなるだろう。これまで、戸籍上で、一方は婚姻によって姓が変更されてきたわけだが、両方が変わるということで、別に不都合はないだろう。もちろん、これまでのように、一方の姓に統一することも可能だから、「家名」の存続がどうしても必要だという人は、そういう選択をすればよい。しかし、「家名」の存続に関心がない人だっているだろう。むしろ、そうした姓を離れたいという人もいるかも知れない。そこまで含めての「選択的」であってほしいものだ。