説明責任は、小室圭氏だけにあるのか

 真子内親王が「結婚決意文書」をだしてから、いろいろな騒動が起きている。その最大のものが、西村宮内庁長官が、小室氏に「説明責任がある」として、国民の不信感に対する説明をきちんとするようにという、見解表明を行ったことだ。私はもちろん、皇室内部事情などは、まったく疎いので、表に現れた情報によって判断しているだけだが、宮内庁長官が個人的な見解を述べるはずがないのだから、これは、皇室の誰かの代弁であるか、あるいは、政府の誰かの代弁なのだろう。そこはわからないが、この説明の要請を聞いて、疑問をもつ人は多いに違いない。
 そもそも、説明責任とは何だろうか。常識的には、何かネガティブな状況になっている、あるいはトラブルが生じている場合に、その状況に対して責任をもっている人が、説明しなければならないということだろう。では、現在生じているトラブルとは何なのか。実は、このトラブルに対する認識が、かなりばらばらなのではないだろうか。
 ある人にとっては、小室家の借金問題と、家庭における複雑な事情であると受け取っている。そう考える人たちは、小室氏に対して、説明を求める発想になるのだろう。あるいは、こんな結婚は絶対に認めないという立場かも知れない。

 しかし、それは私生活上のことであり、私生活に対して、個人に国民に対して説明しなければならないということがあるかと疑問に思う人もいる。
 別に考えられているトラブルは、皇室が関わっている結婚が滞っている、しかも、国民がほとんど祝福しそうにない結婚であるのに、多額の税金が使われているらしいし、また、結婚が実現すれば、さらに多額の一時金が支払われるということに対して、国民のなかで憤りを感じている人がたくさんいるということだろう。女性皇族は結婚すれば、民間人になるのだから、結婚するしないは個人の勝手だろうが、国民の税金が支払われることについては、やはり、説明責任があるだろう。憶測に過ぎないと思うが、小室氏が留学にかかっている経費は、一時金を担保に小室氏が借金をしているという説もある。ただし、この説明責任は、基本的には、そうした支出をする側に説明責任があるように思われる。つまり、宮内庁ないしは、秋篠宮家である。小室氏が、国民を納得させるように説明するかどうかは、国民に祝福される形で結婚が可能になるかどうかが関係しているだけであって、国民の総反感があっても結婚できればいいと思っていれば、説明などしないで済ませるに違いない。現状を考えてみると、小室氏にとっては、国民の祝福などはどうでもいいのではないか。結婚できれば、莫大な利益があるだろうから。とすれば、宮内庁が期待する説明などはしないと、私は予想している。このような事態になっている説明責任は、やはり、小室氏ではなく、お金をだす側ではないか。それは税金なのだから。
 次のもっとも大きなトラブルは、皇室そのものに対する不信感が増大しているということだろう。新聞やテレビだけをみている人には、まったく実感がないかも知れないが、ネットで情報を得ている人たちの圧倒的な人たちは、現在の皇室、特に秋篠宮家に対する不信感をもっているし、かなり手ひどい批判も多数あげられている。娘の結婚相手をよく調べもせずに、認めてしまい、なおかつメディアにリークして、婚約内定の既成事実を作ってしまった。そして、その後いろいろなスキャンダルがでてきて、どうにも収拾がつかなくなり、本来親として、また、皇族の一員としての責任において、処理しなければならないことを放棄し、そして、当事者である娘とコミュニケーションもとれていないと記者会見で述べるなど、国民の不信感を増幅させるに十分な姿勢を示してきた。問題解決がもっとも期待される人が、解決しようという姿勢を見せなかったわけである。このような状況をもたらし、あまつさえ「皇女」制度などを導入しようという動きさえあるようだ。
 このまま、結婚が実現し、真子内親王は民間人になりながら、皇女になって、「公務」なるものをすることで、生活を保障されるとしたら、国民のなかにある皇室への敬意はかなり低下すると予想せざるをえない。
 秋篠宮は、日本国憲法をもちだして、結婚を認めざるをえないという表明をしたというが、憲法には、「第一条  天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」と書かれている。「総意」とはなんだろうか、と考えてしまうような事態になっているわけだ。既に、かなり多数の抗議が、宮内庁に寄せられていると言われているが、もし、国民が、結婚反対のデモのような行動をとったり、あるいは、将来、秋篠宮が即位するようなときに、反対運動が起こったら、どうなるのだろうか。「国民の総意に基づく」ということは、国民が明らかに望まない事態になったら、憲法に抵触することになる可能性があるということと解釈できる。歴史を見れば、天皇という存在の在り方は、時代によって、かなり違っている。ということは、今後も変わりうるということだ。
 もし、賢明な政治家がいるとしたら、天皇の継承は、男系男子に限るなどという、カルト的な主張ではなく、現代社会にふさわしく、また、国民の圧倒的多数が望んでいる、民主主義社会にふさわしい形に変化させていくに違いない。既に小泉内閣でほとんどきまりかけていた、男女にとらわれない長子相続の皇室典範を、再度復活させて、議決することである。そうすれば、国民のなかにある不満は、速やかに解消するのではないだろうか。
 
 
ウェーバー

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です