9月29日の毎日新聞に、「死ぬのは5人か、1人か…授業で「トロッコ問題」 岩国の小中学校が保護者に謝罪」という記事があった。昨日は毎日新聞のページで読んだので、ただ今日コメントを書こうと思っていたのだが、今日ヤフーニュースで読むと、6000件ものコメントがついていた。とうてい読みきれないので、それは読まずに、書くことにするが、かなり関心を引き起こしたことは間違いない。
どのような記事かというと、今年の5月に、中学生2,3年と、小学生5,6年の合計331人に、スクールカウンセラーが行った授業だそうだ。内容は、以下のように紹介されている。
「プリントは、トロッコが進む線路の先が左右に分岐し、一方の線路には5人、もう一方には1人が縛られて横たわり、分岐点にレバーを握る人物の姿が描かれたイラスト入り。「このまま進めば5人が線路上に横たわっている。あなたがレバーを引けば1人が横たわっているだけの道になる。トロッコにブレーキはついていない。あなたはレバーを引きますか、そのままにしますか」との質問があり「何もせずに5人が死ぬ運命」と「自分でレバーを引いて1人が死ぬ運命」の選択肢が書かれていた。」
そして、授業の趣旨は、以下のように説明されていた。
「授業は、選択に困ったり、不安を感じたりした場合に、周りに助けを求めることの大切さを知ってもらうのが狙いで、トロッコ問題で回答は求めなかったという。しかし、児童の保護者が6月、「授業で不安を感じている」と東小と市教委に説明を求めた。両校で児童・生徒に緊急アンケートをしたところ、東小で数人の児童が不安を訴えた。」
今年度県が始めた心理教育プログラムの一環で、スクールカウンセラーの授業は、事前に学校と協議、確認してから行うということだったが、心の専門家なので任せてしまい、確認していなかったという「確認不足」を校長が認めているそうだ。
元素材の構成
この記事を読んで、正直びっくりした。もちろん、50分の授業がどのように進行したのか、全貌をみないと確実なことはいえないが、この記事で判断する限りは、このスクールカウンセラーは、この教材の趣旨をほぼ誤解しているといわざるをえない。おそらく、このカウンセラーは、NHKが放映して話題になった「ハーバード白熱教室」の最初の部分を参考にしたのだろう。
この白熱教室の授業では、この事例を少しずつ変化させた場合を設定して、それぞれの立場の多数派が、異なってしまうということから、先の問題を考えるようにできている。知らない人もいると思うので、簡単に紹介しておこう。
1 トロッコがスピードをだして走っているときに、前に5人の作業員がいて、トロッコはブレーキがきかず、作業員の逃げ場はない。このままいけば5人を轢き殺す。しかし、線路の切り換えがあって、ハンドルをきると、よけられるが、そこには、1人の作業員がいる。君らは、ハンドルをきるか?
2 逃げ場がないところは同じだが、立ってみている君の横に、身をのりだしてみている太った男がいて、彼を突き落とせば、トロッコが止まって、彼は死ぬが、5人は助かる。君を突き落とすか?
このふたつの問いに、「ハンドルをきる」が圧倒的多数で、一人の死と五人の死を比較して、一人を選ぶという回答だが、2では、「突き落とさない」が多数になる。今度は5人を殺すことになる。
サンデル教授は、この矛盾をどう考えるのかと問いかける。
学生からはいくつかの回答ができるが、深入りせずに、違う事例に進んでいる。
3 緊急救命室に、一人の重症患者と、五人の重傷ではない患者が同時に運び込まれる。重傷に掛かりきりになると、その人は助かるかも知れないが、五人が死ぬ。五人を助けようとすると、確実に重傷の一人は死ぬ。どっちにするか。
これについては、ほぼ全員が、5人を助けると挙手する。
4 少し変えてみよう。
臓器移植をしないと助からない5人の患者がいる。それぞれまったく別の臓器を必要としている。しかし、ドナーはいない。すると、となりの部屋に健康診断を受けに来た健康な人がいて昼寝をしている。もし、彼の臓器を取り出して、5人に移植すれば、健康な彼は死ぬが(心臓をとられる)、5人は助かる。そうするひと。
ここで、一人が手をあげて、「自分はまったく違う方法を提案します。」といって、「最初に死んだ人から、他の4つの臓器を取り出します」と答え、サンデル教授を感心させるのである。教授は、「まったく素晴らしい回答だが、私の問題設定を完全に破壊してしまったという欠点がある」と応じて、苦笑いをする。深入りせず、これらは何を意味しているのかという、そもそもの問題論に移行している。
教材の意味は何だったのか
これまでの紹介でわかるように、この教材は、多様な「似た事例」をだしながら、選択する理由に矛盾がでてくることを、まず確認し、そうなる理由として、道徳をどのように考えるかの基本的に異なるふたつの立場があるという説明に移っていくわけである。ひとは、帰結主義のベンサム、ひとつは、定言説のカント。この講義が全体として、このふたつの道徳的立場をさまざまな面から検討しつつ、「正義とは何か」という問題を考えていく構成になっている。
こうしたディレンマ教材の多くは、しばしば矛盾してしまう道徳的判断の問題を考えるための素材なわけである。
しかし、ここで問題となった小中の授業では、「選択に困ったり、不安を感じたりした場合に、周りに助けを求めることの大切さを知ってもらうのが狙い」ということになっている。
もし、この教材を利用して、このように考えさせると意図しているとしたら、とんでもない勘違いといわざるをえない。このトロッコの状態で、選択に困ることは確かだし、不安を感じることも確かだが、「周りに助けを求めること」は絶対に不可能である。というより、不可能であることが「前提」となった想定なのだ。どちらかに決めなければならない、その際の「決める判断基準は何か」を考える教材なのである。このスクールカウンセラー自身は、「どうやって周りに助けを求めたらいいのですか」と質問されて、答えられるのだろうか。もし、「それは先生にも無理ですね。でも、回答は無理に出さなくてもいいのよ。」などといったら、しっかり考えている生徒から、「この教師だめだ」と思われるはずである。自分で問題を出しておいて、「先生にも無理ですね」では話にならない。
ハーバードの授業では、1000人いる全員が、回答できるし、だれだって回答できるようにきいている。それは、どちらを選ぶか、という問いだから、答は誰もでも出せる。答が問題ではなく、その答の根拠が問題で、それを考えていくように授業が構成されているわけである。
はっきりいって、この小中の授業は、「理解させよう、あるいは考えさせようという主題」と、選択した教材が完全にずれているのである。これは、教材選択能力の不十分さ以外の何物でもない。
私の高校時代の経験
私は高校時代の教育実習生の授業を思い出した。ある倫理の実習生が、新聞の投書欄を示した。内容は、「ある母親からの人生相談で、夫はまともに働かず、ちょっした稼ぎもほとんど渡さずに、博打でなくしてしまう。そのことに不満をいうと暴力を振るう。離婚したいと思うのだが、どうしたらいいでしょう。」という相談内容だった。その実習生は、君らならどう回答するか、というと、生徒たちは、ほとんど全員が離婚すべきだと主張した。しかし、実習生は、「君たちはまだ子どもだから、まだわからないだろうが、離婚というのは、とても難しいのだよ。この事例でも離婚は勧められないね。」といって、授業を進めようとする。生徒たちは納得せず、次々に、離婚しないマイナスを具体的に述べ、反論するのだが、あまり納得できる説明もせず、「君たちにはわからないだろうけど、世間はそんなもんじゃないんだ」というような形で締めくくってしまったと記憶している。50年以上も前なので細かいことは憶えていないが、この骨子は、鮮明に憶えている。
この教師の問題は、高校生が、誰もが離婚派となっているのに、それに対して納得できる説明をするのではなく、「君たちはまだ子どもだから、わからないだろうけど」といって、自分の結論を押しつけてしまったことである。わからせるために教材を自分で選んだのに、意見が対立すると、「君らはわからないだろうが」では、なんのための教材なのかということになる。教材選択が間違っているのか、あるいは、その実習生の考えがおかしいのか、あるいは、説明能力が不足しているのか、いろいろあるだろうが、全体として完全に失敗の授業だったと思う。
この件の教師も、おそらく、どうやって「協力したらいい」と聞いたのだろう。しかし、協力できるはずもないのだから、回答がでてくるはずがない。小学生なら、「じゃ、死んじゃうの?」といって、不安になる子どもがいても不思議ではない。そのことの予想ができないというカウンセラーって何なんだ、という疑問もあるが、それはさておき、授業をやるときに、教材の意図を完全に誤解して授業をやってしまった、ということに、やはり、大きな問題があるといわざるをえない。教材選択は、本当に難しいというべきか、この教材を、この目標に選択するのは、簡単にミスマッチだとわかる程度の勘違いというべきか。