道徳教育ノート「ヨシト」

 久しぶりに道徳教育の教材をみてみた。今回は、奈良県教育委員会のだしている資料のなかから「ヨシト」という文章を選んでみた。中学3年生用の教材ということになっているが、私には、小学生用の文章ではないかと思われた。
 主人公はアツシだが、ヨシトという幼なじみの友人がいる。ヨシトの友人は、文章上では、アツシしかいない。あまり話さず、まわりに合わすことや場の雰囲気を察して振る舞うことが苦手なために、一人でいることが多く、いつもニコニコしている。小学校低学年のときは、よく一緒に遊んだが、高学年になると、アツシも他の友人と遊ぶことが多くなり、ヨシトは一人で自転車を乗っていることが多くなった。
 あるとき、ヨシトと話しているとき、コウジやタカフミが、話しかけてきて、ヨシトは変わったやつだという。そして、教室のみんなが自分をみている気がして、話しかけてくるヨシトを振り切って廊下に出てしまう。このとき、ヨシトに聞かれたテレビをみていたのに、みていないと答えてしまう。
 あるとき、ヨシトのことを書いた紙が回ってきて、みんながヨシトを笑っていた。アツシは、紙を握りしめた。
 ある日、部活を終えて帰宅すると、ヨシトが自転車のチェーンが外れているのを直している。「古くなったから新しいのを買ってもらったら」と勧めるアツシに、おかあさんが誕生日に買ってくれたものだからと答えるヨシト。ふたりの女子がヨシトを笑いながら透りすぎ、アツシは、「腹の底に何か熱い塊が生まれたことを感じた。」直ったのでヨシトを嬉しそうに笑い、アツシはしっかりと顔を上げた、と結んでいる。

 
 教材のあとに、「なぜ、話しかけてきたヨシトに嘘をついたのか」「笑うみんなをみて、アツシがたまらなくなったのはなぜか」「熱い塊とは何か、しっかり顔をあげたアツシは何を思っていたか」という問いが書かれている。そして、「指導例」という文章が続き、そこでは、「空気を読めない」者は排除されなければならないのか、そんな空気は誰がつくっているのかなどを話し合うとしている。
 こういう文章を読んでいると、そもそも道徳教育の教材とは何かという問題を、どうしても考えてしまう。
 私自身は、教科としての道徳というのは不要であるだけではなく、有害だと思っているので、どうしても、現制度のなかで、道徳を考えると、いろいろな矛盾が出てくる。もちろん、道徳について扱うことは必要である。社会が安定するためには、最低限の道徳的規範が必要であり、子どもだけではなく、大人も道徳的非難されるような行為は慎むべきである。そして、学校で、いかなる行為が道徳的であり、そうでないのか、考える機会は必要だろう。しかし、もっともよい教材は、優れた文学作品だといえる。なぜ、文学作品が、道徳を考えるのに適切かといえば、文学には、多く人間の困難な生き方が描かれているからだ。しかも、優れた文学は、それを突き詰めた形で提起している。そして、そこには、考える材料としての「具体的生き方・行動」が提出されている。そうした具体例を考察することが、道徳的な理念を育てていくことになると思う。
 しかし、この教材は、ヨシトが、空気を読まない行動を、どのようにしているのか、それに対して、クラスの子どもたちが、どのようにネガティブな感情をもっているのか、どのような問題が、そのクラスに生じているのかが、書かれていない。わざわざ不十分な内容にして、実際に身の回りで起きた具体例をだしながら、それを考えようというような意図なのだろうか。もし、そうだとしたら、逆に非常に危険なことではないだろうか。というのは、実際に、クラスのなかに、空気を読まずに行動して、嫌われているような子どもがいたり、あるいは、みんなにあわせることをしない子どもがいるとしよう。多くの場合は、ここのヨシトのように、友人があまりいないだろうし、孤立しているに違いない。そういう具体例が出てきたら、よほど教師がリードして、孤立している子どもを排除することが間違っているというように、守らないと、結論がそうなったとしても、やはり、一種の集団いじめのようになってしまう危険がある。あるいは、それが間違っているという結論が、教師によって求められていることを、子どもたちが察知して、率直な意見をださないことになる危険もある。それでも、本来の多様な意見をだして、考えるという目的を達成することはできない。
 それに対して、教材のなかに、具体例があれば、子どもたちは自由に自分の意見を公表することができる。つまり、具体的な個々人の行動への批判ということから解放されるからである。もちろん、クラスのメンバーの行為そのものを考えなければならないこともあるだろう。それは、基本的には生活指導のなかで行われるべきであろう。道徳教育と生活指導は、同じものではない。
 
 この教材では、そういう点で、かなりあいまいである。
 ヨシトは、本当に嫌われているのかどうか、ここではあまり読みとれない。ヨシト自身が、仲間に入ろうとせず、それでとくに不満を感じているわけではない様子だから、嫌われたり、あるいは、いじめられたりしているわけではないようにも思われる。また、ヨシトと仲良くするアツシにも、悪く対応するような様子でもない。紙は、アツシにも回ってくる。しかし、その紙の内容は書かれていない。あまりいいことが書かれていないことは間違いないだろうが、アツシが怒ってしまうような内容のようにも思われない。自転車を直しているヨシトを、二人の女子がクスクス笑いながら通るという場面も、何か嫌なことをいったわけでもなく、アツシが「熱い塊」を意識したというのも、自然な流れのようには思えない。やはり、あいまいな教材では、深い討論は難しいのではないだろうか。
 

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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