森オリンピック組織委会長の「女性理事が増えると会議が長くなる」云々の発言が、更に話題として拡散して、批判に曝されている。毎日新聞によると、森会長の20代~30代の女性中心の署名活動には、瞬く間に10万を超える署名が集まったという。森会長の挨拶のときの評議委員会で、笑いがおき、誰も抗議するものがいなかったことも、批判されている。私がネット上でみている限り、森発言を支持する投稿はない。ここも妙なところだ。何故なら、政府関係者やオリンピック開催支持派のひとたちは、森氏を強く支持しているわけで、辞任には賛成しないといっても(例えば橋本オリンピック担当大臣)、内容にはほとんどの人が反対している。
しかし、森氏の発言は、思わず出た失言ではなく、普段から思っていることをそのまま率直に言ってしまっただけのことで、いわば確信をもった内容だろう。だからこそ、笑いが起きた。つまり、同意するひとたちが、評議員ではほとんどだった。それなのに、森氏は正しいことを言っている、と擁護もしないのだ。「誰も擁護してくれいなのか、ばかばかしい、俺はこんなに一生懸命やっているのに」といって、森会長が辞任してくれるといいのだが。辞めようとしたが、強く慰留された、とご本人は言っているようだが。
それはさておき、今回の森発言は、ほとんどの人が女性差別ということで批判をしている。もちろん、それも重大な問題だが、実は、もっと違うところに、大きな問題があるといえる。そして、そのように指摘している人も、わずかながらいる。
それは、組織委員会などだけではく、実は、日本中の公的機関としての委員会、審議会なるものの大きな問題なのだが、「会議が長くなること」がよくないことで、熱心に発言する人、特に、提案に批判的な発言をする人は問題だ、という感覚が支配していることなのである。女性は発言時間が長い。けっこうなことではないだろうか。たいした議論もせずに、短時間に終わる会議のほうが、よほど欠陥がある。会議とは、多様な意見を出し合って、欠陥をあらいだし、よりよい形に改善していくプロセスとして機能しなければならない。しかし、それを嫌うからこそ、「時間が長くなる」ということを、ネガティブに言うわけだ。女性が増えたら、発言時間制限をしなければいけない、などという発言など、実はこちらのほうが強く意識されている。女性が発言時間が長くて、会議がのびるならば、大いに女性を増やしたらいい。会議らしくなるだろう。
森氏、そして、同調者たちの本音は、以下の発言に象徴されている。
「あまり言うと(中略)俺がまた(女性の)悪口言ったとなるけど、女性を(中略)増やしていく場合は、発言の時間をある程度規制をしておかないとなかなか終わらないから困る。(中略)誰が言ったかは言いませんけど、そんなこともあります」
菅首相が、GOTOキャンペーンを強く押し進めていたとき、専門家の話によると、GOTOキャンペーンの実施によって、感染者が出ているという明確なエビデンスはないと話していたことは、記憶に新しい。しかし、国会に呼ばれた尾身氏が、移動によって感染が拡大するという発言をしていたことも、思い出す必要がある。つまり、菅首相は、専門家の提言などは、実はきちんと受け取っていなかったことが暴露されていたのである。しかるべき事務方が、GOTOをやっても、感染が拡大するわけではないという「まとめ」をして、それを専門家会議は、そのまま、たいした議論をせずに了承する。それが専門家の審議会の求められる姿になっている。コロナ感染に関する分科会が、どのような提言を、官邸にあげていたか、詳細はわからないが、菅首相にとっては、事務方がまとめた「エビデンスがない」という内容こそが、重要なのであって、生身の専門家がどのように考えているかなどは、都合が悪ければ、存在しないものとして扱う。(専門家の会議のために断っておくが、正式な会議のあと、委員たちは侃々諤々の議論をしていたと言われている。)
以前にも書いたが、再度書いておきたい。私は、一度だけある自治体の審議会の座長を務めたことがある。私がもっともよくその領域を知っている専門家だったから、実質的に審議会をリードし、答申文書も執筆した。責任者は喜んでくれたが、ある事務方の人が、偶然乗り合わせた電車のなかで、「専門家には、私たちのまとめをそのまま了承してくれるような人を頼むんですよ」と、実に厭味な表情をしながら、私に言ったのである。最初、何を言われているのかわからなかったのだが、要するに、私が専門家としてでしゃばっているということなのかと気づいた。なるほどな、と普段メディアなどで指摘されていることだが、我が身に起きたことで、リアルに認識することができた。もちろん、すべての審議会などがそうだとはいわない。しかし、出席の専門家の意見によって、最初の案が完全に否定されて、まったく違う案が生成されるというようなことは、ほとんど起きないことだけは、断言できる。いまは、審議会の議事録などがインターネットで公開されているから、審議過程を正確に掴むことができるが、いくら読んでも、その点だけは変わらないのだ。
つまり、森会長発言の最大の問題は、日本の公的組織が、実質的な議論などしないという体質をもっており、それは意図的にそういうひとたちを選び、事務局がまとめた案を、ほぼそのまま了承する機関にあっていること、そして、それをよしとしていることなのである。
このことは、どのような弊害があるだろうか。
何よりも、会議で実質的な討論をして、案を改善していくことがないので、一部の案作成をしているひとのレベルでしか、ものごとが進まないことである。この一年、コロナ対策は、失敗の連続であった。しかも、第一次の波が起きていたとき、第二次、第三次が起きることは十分に予想されていた。しかし、この一年、私は、毎日コロナ情報は丁寧にフォローしていたが、進歩したのは、医療関係者の治療法程度だったのではないだろうか。医療についても、病院のシステムを地域的に組むという点では、政治の関与の領域では、ほとんど適切な対応がとられず、第三波の医療崩壊を引き起こしてしまった。この医療崩壊は、ほとんどが人災であり、その責任は政治にあった。これは、政策づくりをする、上のレベルでも、情報を集め、それを集約し、多数の知恵を出し合って、よい政策を練り上げていくということができにくくなっていることを示しているのである。それができていれば、アベノマスクなどが実行されることは、決してなかっただろう。
そして、このことと、対ともいえるが、そうした政策立案のための集団的知恵をぶつけ合って、よりよいものをつくっていくという「能力」が育たないことである。案を作成するひとたちも、それがほぼそのまま通るのだから、緊張感がないし、また、批判され、もまれてよりよいものに仕上がっていくという充実感もないだろう。これは、日本の組織に、非常に多くみられる現象であって、森会長の発言は、そのことを表わしているのである。そして、その発言は、差別というようなものではないだけに、逆に被害が大きいのである。
別の面でいうと、これは第三に、専門家の軽視と表裏一体である。前にも書いたが、コロナの専門家委員会の構成そのものが、感染症の専門家にいわせると、本当に必要な人材が集められていないという批判がけっこうあった。しかし、まったくの素人の集まりではなく、とりあえず専門家の委員会の提起したことが、政治家たちに、非常に安易に扱われた。これは、GOTOキャンペーンの扱いで、前に述べたが、現在の分科会に再編するときに、前の委員たちの意志をまったく無視して行ったのだが、それなどは、専門家軽視の最たるものだろう。専門家軽視というのは、日本全体にある風潮であって、例えば、スポーツの精神主義などは、専門家軽視と結びついているのである。