動物福祉に関する率直な疑問

 吉川元農相の収賄罪に関連して、日本の採卵鶏の飼育が、国際基準から大きくかけ離れていることを批判する文章があり、あわせて「動物福祉」を推進する必要が説かれている。「「動物福祉」問われる日本の姿勢 浮き彫りになった世界とのギャップ」(全国新聞ネット2021.2.7)である。しかし、私は、どうもこの手の議論には、全面的に賛成ということには、抵抗がある。日本でも、法的に野生の動物を保護する規定があり、むやみに野生動物を捕獲したり、殺傷することは許されない。また、動物実験などでも、それなりに配慮がなされているように思われる。それでも、不足だという見解も多いことは知っているのだが、これは、あまり科学的エビデンスに基づくというよりは、価値観的立場の問題だと思うので、自分なりの考えを整理してみたいと思った。

 
 まず人間と動物の関係には、どのような種類があるのだろうか。大きく分けて3種類あると考えられる。
1 野生の動物。狩猟や漁業で、人間が食料として捕獲する動物と、人間との関係は基本的にないが、餌がなくなって、野生動物が、人間の住む地域に出てきたり、人間が植物採集やハイキングなどで、動物の領域に入り込んで出会うことがある。
2 鑑賞やペットして、人間が飼っている。
3 人が動物を活用している。これには実験用と食用、興行用がある。
 これらの観点からの検討は次回に譲り、先の全国新聞ネットの記事に、次のような表が掲載されているので、今回は、この点について考えてみる。

 まず動物園のことが書かれている。私自身は、動物園という存在に対して、あまり共感できないでいる。別に動物を保護すべきだとか、あるいは動物の福祉を推進すべきだというのではなく、単純に動物は野生でいるのが一番自然だと思うからである。熱帯のアフリカの動物、例えばライオンを、日本に連れてきて、そこで飼育しても、それは本当のライオンの姿とはいえない。かといって、身近に触れることができるわけでもない。ならば、現代では詳細な映像等の資料が豊富にあるのだから、一般人にとっては、それで十分ではないかと思うのである。チンバンジーやクマだけが特別視される理由はないのではないか。更に、あまり知られていないが、動物園での飼育法は、実際の動物の生活とはかなり違っている。
 一度ベルリンの動物園にいったことがあるが、そこでみた蛇の部屋には、ショックを受けた。部屋は日本と同じように、ガラス張りの部屋に巨大なニシキヘビがいるのだが、日本と違うのは、食べられた鶏の羽がそこら中に散らばっているのだ。蛇は当然生きた餌しか食べないから、生きた鶏を蛇の部屋に放り込むわけだ。日本だって同じことをしているわけだが、日本は、客が入らない時間帯に餌をやり、入館の時間にはきれいに掃除してしまうのだ。このように、動物を見せるやり方にも、国によって異なる。ということは、どちらにせよ、現実とはかなりの相違があるということだ。
 したがって、ここの提起は中途半端だが、原則的には賛成で、もっと徹底すべきだと思っている。
 実験動物については、あまり賛成できない。医薬品開発は、最終的に人間で治験を行うが、その前には、動物実験で効用や安全性を確かめる。マウスやラットを使うことが多いが、霊長類を使うことに反対しているのは何故だろうか。ラットはよくて、チンパンジーがよくない理由が、私にはわからない。しかも、最終的には、人間に対しても行うのである。ラットで十分実験したあと、霊長類のように人類に近い動物で確認してから、人体による治験をすれば、より有効性や安全性が確認しやすくなるのではないだろうか。
 畜産動物についての項目が一番納得できない。
 まずフォアグラの生産、販売禁止だが、無理に大量の餌(トーモロコシ)を食べさせて、不自然な身体を作って、食料にすることを、動物虐待のように解釈するのだろう。私自身、フォアグラを好んでなどいないし、食べたこともなく、食べたいと思わないから、禁止することに反対ではないが、それなら、牛や豚、鶏などに、遺伝子操作をした餌を大量に与えて、早く成熟させ、必要以上に大きな身体に育てるような飼育は、何故ここに触れられていないのだろうか。フォアグラよりも、ずっと大量に普及している飼育法である。豚舎や鶏舎の容積を大きくとることや、平飼いが好ましいとは、私も思う。ただ、動物福祉の観点からそう思うのではなく、健康な、また栄養価の高い食料になるし、また、病気の感染などの対策としても重要だろうと思うからだ。しかし、そうした悪環境で育った安い肉を好む人、あるいは必要とする人も、実際にはたくさんいるだろう。このような福祉的な飼育をされた肉は高価だから、食べられない人もたくさん出てくるに違いない。それも問題ではないかと思うのだ。
 興行用動物の部分は、基本的には賛成である。動物を見せ物に使う興行などに、私は興味がないし、闘牛などは禁止すべきであると思う。同時に闘犬や闘鶏なども同様だ。そして、人間のボクシングも、同じように禁止すべきだと思っている。闘牛がいけないのに、ボクシングがよい理由は、私にはわからない。
 ただ、イルカの芸やサーカスでの動物の使用などが、動物の虐待だとは思わない。そうした芸は、体操競技、トランポリン、フィギュアスケートなどと、あまり違わないと思う。人がメダルや賞金を獲得するために、努力しているのと、エサのために芸をしているイルカと、それほど違うとは思わないし、闘牛や闘犬などのように、互いに傷つけあう、あるいは死ぬまで争わせることとは異なると考える。
 全国新聞ネットの記事は、食用動物については、あえて「立ち入らない」としているが、この手の文章を書いて、食用動物の扱いについて触れないのは、画竜点睛を欠くと言わざるをえない。もっとも重要な部分を避けては、説得力が著しくなくなるというべきだ。(次回詳しく書きたい。)
 
 もう一点、この全国新聞ネットの記事内容について、疑問があるので記しておきたい。動物福祉は、環境問題を考える上でも重要で、グリーン化をめざす文明観と符合するというのである。しかし、何故そうなるのかの理由が記されていない。唯一書かれているのは、食用動物の飼育を高度化する、つまり、過密飼育を止めるとグリーン化になるというのだ。それは、飼育する動物数が減少するという点では、確かに、グリーン化に有効である。しかし、それなら、動物福祉とは、動物を大切にすることだから、動物は全体として増えるだろうし(捕獲禁止)、全体としてグリーン化に反することになるはずである。環境悪化の要因は、人口増大と、それによって食料やエネルギーを大量消費するために起こっているのだから、動物が増えても、基本的には同じことが起きると考えねばならない。環境問題を、生物で考えれば、人間も含めて、動物は減少させることが必要であり、増やすべきなのは植物である。(続く)

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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