動物福祉に対する率直な疑問2

 今日は、昨日整理だけしておいて、説明をしなかった部分について書きたい。昨日、人間と動物の関係を、乱暴だが、以下のように分類した。
 
1 野生の動物。狩猟や漁業で、人間が食料として捕獲する動物と、人間との関係は基本的にないが、餌がなくなって、野生動物が、人間の住む地域に出てきたり、人間が植物採集やハイキングなどで、動物の領域に入り込んで出会うことがある。
2 鑑賞やペットして、人間が飼っている。
3 人が動物を活用している。実験用と食用、興行用がある。
 
 近年日本では、野生で生息している動物が、人間の居住空間に出てきて、農産物を荒らすとか、あるいは住宅地域に出てきて、食料をあさっているなどの「被害」が増加している。もちろん、その原因はあきらかで、動物が生きている空間で食料が乏しくなった結果と、とくにサルなどは、人間の空間にいけば、より美味な食べ物があることを学習していることもあるだろう。動物も、それなりに知恵をつけて、人間が住んでいる地域にでかけても、危害を加えられることはないと分かっているのかも知れない。

 また、遠征してこなくても、カラスのように、普段から人間の出すごみなどをあさって、多数が群れている場合もある。私が勤務していた大学では、駅からキャンパスにいく道のごみ置き場に、いつも多数のカラスが群れていて、みな怖がっていた。ごみおき場に10羽、その周辺や電柱などに10羽程度がいると、やはりけっこう恐怖心が起きるものだ。カラスは、何か危害を加えると、加えた人間を覚えていて、襲撃するという話があるから、みんな避けている。そして、酷く散らかされていた。
 こうした点において、私は基本的には人間の立場を重視したいと考える。動物福祉派の人たちからは、批判されるだろう。
 カラスの害を防ぐには、基本的には、包装をしっかりして、置き場に網をかける。そうすれば、かなの程度は、カラスがついばむのを防ぐことができるが、それでも、ルールを守らない人がいることと、カラスは非常に賢いので、やがて、人間の防御を破ってしまうこともある。
 野生の動物に対しては、やはり、人間が自然を保護し、里山の破壊などを慎むことが必要だと思うが、人間の食料の味を覚えたり、農産物に被害をあたえる動物に対しては、駆除を禁止することに、疑問が湧く。もちろん、カラスを勝手に駆除することは法律で禁じられており、また、許されているとしても、かなり駆除が容易ではないことはわかる。しかし、自然な生態系を守ることが、駆除の制限であるとすれば、人間の出す生ゴミをあさって食べるカラスのありかたが、自然の生態系であるのかも、大いに疑問だ。
 鑑賞やペットはどうか。前回動物園やサーカス、イルカのショーなどについては書いたので、今日はペットについて考えたい。人類は犬を非常に早い時期からともに生活してきたという。しかし、いずれにせよ、犬にしても、猫にしても、人間は、彼らを有効活用するために、飼育してきたのが、歴史上の主な形態である。猫は、ねずみをとるとか、犬か狩猟に活用するなど。
 戦後の日本をとっても、犬はほぼ番犬として飼われていた。しかし、いつか家のなかで飼うようになり、人の友だちになった。ペットになったわけである。人がペットに癒されるのは確かだろう。そして、そのことを否定するつもりはない。だが、やはり、ペットがかわいいのは、自分の意志に決して逆らわず、自分の掌のなかにあるからではないだろうか。
 現在、学校では、小さな動物を飼育していて、子どもが餌などの世話するのが普通である。そのことによって、命の大切さを知り、小さな動物を保護することによって、仲間の大切さも理解するということが意図されている。しかし、小さな動物の飼育をすることが、本当に人を大切にすることにつながることなのか。それとは逆の実例も少なくないのではないだろうか。自分のペットを大事にする人が、他人には乱暴にする人もいるに違いない。多くがそうだというつもりはないが、ペットは自分が思うようになるから、好ましく思っているという人にとって、思うようにならない人に対して、合理的に振る舞うことができるのか、と疑問に思ってしまう。私は、人間でも、自分の意図通りに動いたり、自分にいつも賛成しかしないような人とは、あまり親しくしたいと思わない。「自分」をもっていないように感じてしまうのだ。
 最大の問題は、やはり食用に飼育している家畜だ。もちろん、動物愛護の立場から、厳格なベジタリアンになる者もいて、そういう人は一貫した原則で動いている。しかし、動物福祉を主張しながら、動物を殺害して食べることを認めるのは、矛盾していないだろうか。飼育の仕方が、残酷なのはだめだというのが、動物福祉の立場だと思われるが、私には、いいわけのような気がする。
 捕鯨への反対論は、いくつかあるが、捕獲のしかたが残酷だという論がある。しかし、哺乳類は、鯨だろうが、牛だろうが、痛点があり、出血するから、麻酔でもしない限り、食用のために殺すのは、残虐になるだろう。捕鯨に反対するが、牛を食用にするのに反対しない人は、かなり多い。それが、残虐だからというのでは、矛盾する論理になる。私は、捕鯨にあまり賛成ではなく、牛を食用にするのは反対ではない。しかし、それは残虐さとは無関係で、鯨は公海上にいるが、牛は所有者がいて飼育、育てているからである。公海上に生きている動物を捕獲して食用にするには、量的な制限をかけなければならない。そうしなければ、資源としての鯨がやがていなくなってしまうからである。だから、鯨に限らず、養殖していない水陸の動物は、原則的に捕獲の制限をする必要があるのだ。(この文章は、あくまで個人的な考えを整理してみようという意図で書いたもので、動物福祉をすべて否定するものではない。)

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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