森発言に驚いたこと

 オリンピック組織委員会会長の森氏の発言の波紋が、まだ続いている。いろいろなことが報道されて、掘り起こされているが、驚くことが少なくない。例えば、発言があった翌日、森氏は発言撤回とお詫びの会見を開いたが、その前に、辞任の意志をある程度固めていた森氏に、そういう報道があったことを受けて、武藤副会長が、懸命に慰留して、それで森氏は辞任の意志を撤回したのだと、毎日新聞が報道していた。もっとも、それは、森氏が毎日新聞の記者に語ったことであって、他には報道されていない。しかも、まわりにいた人は、涙を流していたというのだから、かなり時代がかった内容で、そんなことが本当にあったのかどうかは、不明だ。それより、私が驚いたのは、武藤氏が「組織委員会の5000人はどうなるのか?」と、森会長に迫ったというのだ。私の認識不足といえば、それまでだが、オリンピック組織委員会って、5000人もいるのかと、今更だが、びっくりした。委員会メンバーの給与が高すぎるというので、ずいぶん問題になっているが、給与の高さだけではなく、支払われる数もずいぶん多いことになる。本当にそんな大勢の委員が必要なのだろうか。出向が多いともいうから、出向元が給与を負担しているという場合もあるだろうが、とにかく、人数にびっくりした。日本の労働者の生産性の低さは、しばしば問題になるが、おそらく、オリンピック委員会の生産性も、それほど高くないに違いない。

 第二の驚きは、「政官財、スポーツ関係者が森氏について「余人をもって代え難い」と口を揃えるそうだ」というような話が、出ていることだ。政官財・スポーツ関係者というのだから、かなり多くの人が、そう言っているのだろう。「余人をもって代え難い」というのは、たいてい、代えなければならない人事を潰すための口実に使われるとも、これを紹介した記事は書いていたが、私が驚くのは、本当に、「余人をもった代え難い」、正確にいえば、人材がいないということらしいのだ。その手の世界に、どのような人材がいるのかわからないが、人材がいないことこそ、大きな問題ではないのだろうか。
 第三の驚きは、自民党幹部の発言として、「森会長がやめたら、世論が五輪中止に傾くことを菅首相は恐れている」と語っているということだ。本当に、そのように菅首相は思っているのだろう。かなり驚きだ。既に五輪中止と延期をあわせると、既に80%という世論調査がでている。報道によれば、再度の延期はないというのだから、これは実際に、国民の大多数が、今夏の中止を望んでいる。既に「傾いてしまっている」のだ。それとも、こうした世論調査は信用できないと思っているのだろうか。あるいは、いま程度の世論は、無視しても構わないと思っているのだろうか。
 
 ここまでは、報道に対する「驚き」だが、もう少し、森氏のやってきたことについて考えたい。
 春日良一氏の「森喜朗会長を組織委はなぜ慰留するのか?五輪後を見据えた勢力図とは」(ダイアモンド・オンライン2021.2.9)によれば、森氏のスポーツ界に対する貢献は評価に値するという。氏によると、2005年に日本体育協会の会長に就任、2011年に退任するまでに、首相経験の政治力で、スポーツ界の振興基盤を作り上げ、財政基盤を安定させた。2011年、スポーツ基本法、2015年スポーツ庁の設置。2019年ラグビーW杯招致、と成功、そして、2020年の東京オリンピック招致。しかも、オリンピック招致に際しては、当時の首相を駒のように使ったとしている。
 つまり、日本のスポーツ界における森氏の地位は、まったく比類のないもの、揺るぎのないものなので、誰も口をはさめないというのである。
 さて、こうした動きを見ると、教育学を専攻する私として、見逃せないことがある。それは、森氏がスポーツ界で、活躍をしていた場所は、スポーツ界の頂点だろうが、その時期は、末端の学校現場では、どんどん体育の占める部分が肥大化していった時期と重なるのである。私の大学の教え子で、小学校の教師になった者が多数いるが、多くの学生が、新任間もない時期に、体育主任を担当させられている。そして、体育主任になると、とにかく自分がなくなってしまう。それは、体育関連行事に関することで、甚大な時間を取られるだけではなく、体育関連行事には、異論をはさむ余地がないようで、有無をいわさず、通常の学校教育の範囲を超える業務をせざるをえなくなるのである。市内の体育大会などが、頻繁にある。すると、そのための体勢づくりが、各学校で必要となる。出場選手の選抜、そして日常的な練習、そして大会への引率等々。選手に選ばれると保護者も駆り出されることが少なくない。そうすると、保護者対応も必要となる。何故、新卒から2,3年目の教師が体育主任になるのか。私には、厳密にはわからないが、おそらく、まだ学校教育への希望に燃えているだろうこと、若いから体力があること、学校のことをあまり知らないので、言われたことを素直に実行すると予想されること、等々ではないかと思う。しかし、2,3年の体育主任を終えると、すっかり疲れ切ってしまう教師も少なくない。そこで、ある市などは、教員採用の段階で、大学での体育会系統のサークルをやっていた学生を採用するのである。
 こうして、学校教育全体が、体育を中心として回っていくような自治体が、けっこう出現している。もちろん、すべてではない。しかし、小学校の教師が指導しても、科学的指導などはできないし、もともと期待もされていないだろう。そして、新人教師時代に、本当に必要な授業研究が、どうしてもおろそかになってしまう。軍国主義的な教育体質になってきている、とまではいわないが、少なくとも、そうした傾向が強くなって、知的領域の教育がおろそかになっている、そして、それは塾などに、結果的に委ねられてしまっている。それは極端な言い方が、地域によっては、否定できない現象なのである。
 このようなことは、日本の学校教育にとって、好ましいことだろうか。
 森氏が、上記のようなことをやったのだとしたら、それは、私には、「貢献」とは思えないのである。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
体育会的な学校教育に変質
 

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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