オリンピックの商業主義は、ロス大会とそれ以後はまったく違う

 田村淳さんの、聖火ランナー辞退を述べたyoutube映像をみた。実にきちんとした説明で、説得力がある。森会長の「たんぼのなかを走ればいい」という発言を受けて、まわりに人を集める必要がないのなら、タレントが聖火リレーをやる必要がないというのは、正論であると同時に、森会長の発言に対する痛烈な批判であり、たぶん、グーのねもでないだろう。実際に、組織委員会のメンバーが「おっしゃっていることはごもっともな話で、こちらも何ひとつ反論しようがないのが非常に歯がゆいところなのですが・・・」と述べているそうだ。(臼北信行「これはヤバイ「森失言」で五輪ボランティア消滅危機--ロンブー田村淳さん聖火ランナー辞退、ますます高まる反対世論」)
https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/63956
 そして、昨日(2月3日)は、女性蔑視発言だ。いわずもがなの発言だと思うが、何故こんな愚かなことを言ってしまうのだろう。本当に不思議である。しかも、この会議はオンラインで行われていて、多くのメディアに公開されていたという。ということは、そのまま録画可能だということだ。この話を最初聞いたときに、さすがの森会長も、いろいろと言われるし、オリンピック開催の可能性がほとんどなくなってきたので、嫌気がさし、投げ出すきっかけに暴言を吐いたのかと思ったほどだ。しかし、今日(2月4日)の釈明会見を見ると、そうではなく、本心を吐露しただけのようだ。釈明会見だから、発言を撤回して謝罪していたが、だれかが書いたメモを、いやいや読んでいる感じで、自分の本意ではないというのが、あからさまに出ていた。

 田村淳さんの辞退を促した森会長の発言はもうひとつあり、「どんなことがあってもやる」という言葉だった。この森発言や、バッハ会長の「B案は存在しない」という、とにかくコロナの状態のいかんにかかわらず、オリンピックは開催するという表明は、オリンピックを開催したい人たちが、どのような立場にあるかを如実に示したと、多くの人が感じ取っている。それは、端的に、オリンピックによって莫大な利益を得る人たちである。IOC、メディア、観光に関わる業界、建設業、政治家、そしてアスリートである。しかし、実は、1970年代までのオリンピックは、そのような莫大な利益を生むようなスポーツ大会ではなかった。引き受けた都市と国家が必要な会場、設備を準備し、テレビ放映は当該国内に限られていたから、映画がつくられただけだ。金メダルをとったからといって、アスリートに莫大な賞金が入るわけでもなかった。したがって、オリンピックは、確かに国家の威信をかけたものだったが、確実に赤字になり、それほど派手なものではなかったのである。敗戦国だった日本が、東京オリンピックによって、高度成長を実現し、世界に存在感を示したことによって、途上国が一人前の国家として認められる象徴のようなものになった側面もある。
 しかし、それでも、少しずつ規模が大きくなり、国家の負担がまして、立候補国が激減したときに、オリンピックの方向性を大きく変えたのが、ロサンゼルス大会である。
 
 1984年のロサンゼルス大会から、オリンピックの性格が商業主義になったと言われている。しかし、厳密には、ロサンゼルス大会と、その後の大会は、その意味が異なってきているといえるのではないだろうか。つまりロサンゼルス大会は、かなり特殊な大会だったのである。
 1980年のモスクワ大会は、社会社会義ソ連の大会であり、かつ、ソ連のアフガニスタン派兵に対する抗議として、西側の多くの国が参加をボイコットしたので、対象から除外するが、それまでの大会、つまり、1976年のモントリオール大会までは、基本的に都市と国家が責任をもつ公的な大会だった。しかも、そのためもあって、政治問題が持ち込まれることも少なくなかった。その典型が、1972年ミュンヘン大会におけるテロ事件だ。そして、次第に大規模化するに従って、競技場や選手村、役員やメディアのための施設等々、主催国の経済的負担も大きくなっていき、開催を希望する国が減少していった。そうして危機的状況を向かえたとき、ロサンゼルス会が、その危機を救ったと言われている。つまり、この大会では、大会責任者であるユベロス氏の大胆な施策の導入によって、莫大な黒字を生み出した。その結果、オリンピックは儲かるという意識を生み、その後、商業主義的な手法がどんどん拡大し、アマチュア主義が薄くなって、プロが席巻するようになる。規模もどんどん拡大し、利権が支配するようになる。
 しかし、商業主義になって、儲かるといっても、それは、商業的要素に関わっている部分のみであって、公的負担がそれほどなくても、オリンピック運営そのものが黒字になるというのは、アメリカだからこそ可能だったという面が無視されている。巨大な放映権といっても、それはアメリカでは、テレビ曲と実施場所が一致しているが、他の国でも、相変わらずアメリカのテレビが支配的であり、しかも、その放映権料はIOCがかなりの部分を吸い取るから、主催国にはあまり還元されない。スポンサー企業といっても、アメリカには巨大な企業がたくさんあり、他国の大会でもスポンサーになるとしても、当然アメリカの大会よりは、額は限定されるだろう。だからこそ、日本は、一業種一社という原則をやめて、複数企業を認めたに違いない。
 今回の東京オリンピックをみれば、当初のコンパクト形態はまったく無視されて、膨大な経費がかかる大会になっていて、しかも、かなりの公費が投入されている。つまり、膨大な赤字を生んでしまう大会になっているのである。商業主義であるにもかかわらず、国家的に膨大な赤字を補填しなければならない。これは、ロサンゼルス大会の商業主義とは、まったく異なっているのだ。
 商業主義は、IOCにも大きく影響を与え、それが開催国の利権と結びつくことによって、オリンピックのいろいろな面がいびつになっていった。1964年の東京大会のために建設したスポーツ施設は、いまでも活用されているものが少なくない。国立競技場は、そのまま使う予定だった。水泳とか、さまざまな競技のための施設が、以前のものがあるにもかかわらず、新設されている。それは、巨大になれば、利権も大きくなるので、IOCは競技施設の規模をかなり厳格に規定している。そのために、既存の施設があるのに、新しく建設するか、あるいは増設する必要が出てくるのだ。そうすると、開催国の建築業界が潤う仕組みだ。国立競技場を、完全に新しくしたことで、誰が利益をえて、誰が負担を余儀なくされたか考えてみれば、オリンピックを、誰がどうしてもやりたいのかがわかる。
 
 商業主義は、出場資格にも大きく変動を起こし、アマチュア・スポーツの祭典だったオリンピックが、完全にプロ・スポーツの祭典になってしまった。もちろん、アマチュアが排除されているわけではないが、プロスポーツが実施されている分野では、ほとんどアマチュアの活躍の場はない。そして、そのことによって、ほとんどの国で、メダル獲得者に対して、報奨金が出るようになり、また、出場アスリートの生活や練習の保障をするようになっている。それまでの日本は、出場選手も、生活のために働き(企業に勤めて、実際の仕事をしている人が多かった)、金メダルをとっても、一銭にもならなかったのである。そういうなかで、社会主義国のステートアマの存在が、資本主義国にも広まったといえる現象が起きたのである。そして、アスリートにとっても、オリンピックは巨大な利権になっている。決して、スポーツマンシップにあふれた精神でやっているわけではない。
 
 まとめれば、ロサンゼルス大会は、商業主義を取り入れることによって、それまでなかった黒字経営を実現した。しかし、それはアメリカのような巨大な経済国家でこそ可能なことであり、商業主義によって肥大化した費用が、開催国にのしかかるようになり、商業主義の恩恵を受けるひとたちと、税を負担するひとたちに、大きく分かれることになった。だから、ほとんどの国では、オリンピック開催を国民は望まない。2013年の選抜で、東京オリンピックが決まったが、実はその前から立候補していたのだが、何故選ばれなかったのか。多くの人は忘れているかも知れないが、それは、国民の支持が低いという理由が大きかったのである。国民の支持は、ずっと低かったので、利権派たちが、だいだい的なメディアを活用した宣伝を継続し、少しずつ、反対世論を変えていったのだが、それでも、誘致のためには、賄賂を使い、原発事故はコントロールされている、復興五輪にする、コンパクトにやる、温暖なよい気候だ、というようなたくさんの嘘をつかねばならなかったのである。 
 コロナは極めて不幸な現象だが、少なくともオリンピックの幻想を覚ますには、効果を発揮している。

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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