youtubeで本能寺の変についての諸説を解説する映像をみた。簡潔にまとまっていて面白かったが、結論としては、結局どの説がもっとも説得力があるのかは、まったくわからず、すべての説が問題あり、という感じになっている。そして、最後には、本能寺の変をあまり重大に扱うことこそが、問題だなどという説まで出てくる。最近は、あまり読まないが、若いころは信長ネタを大分読んでいたので、遊び心になるが、現在の私の「印象」を書いておきたい。専門家ではないので、詳細な資料を読んでのことではないし、気楽な印象だが、たまにはいいだろう。
youtubeでは、大きく怨恨説と黒幕説にわけ、それぞれ細かくわけていた。私は、怨恨説はどれも間違いであるように思う。そもそも、ほとんど無名の侍だった光秀が、大名にまで取り立てられているのだから、不満をもつのも妙だし、家康の供応の不始末とか、比叡山の焼き討ちに反対したとか、領地を召しあげられたとか、そういう怨恨説の根拠は、いずれも否定されているし、また、そんなことを起きるのか?という、疑問だらけの根拠だ。
それで、黒幕説ということになるが、youtubeでは、そもそも黒幕説もかなりきわどいとされるのは、本当に黒幕がいたとしても、光秀に提案する、あるいは光秀から提案する、どちらにしても、相手が裏切ったら、信長に通報されて、直ちに首を切られるのは明らかであり、危険すぎると述べていて、それは、確かに納得できる。唯一その心配がない黒幕説は足利義昭であるが、義昭の当時の実情を考えれば、かなりありえない話だ。四国との関係(長宗我部との確執により、とりもっていた光秀が苦しい立場におかれたという)というのも、やはり、あまり説得力を感じない。
ただ、この解説では、もうひとつ有力説であるはずの、結局、光秀だって戦国の覇者になりたかったのであって、空白の京都に、信長が無防備な状態で滞在しているという、これを逃したら絶対にないほどのチャンスを目の前にして、下克上を実行したのだ、という説については、まったく触れていないのは、不思議だった。ただ、光秀ほどの戦略家が、そんな短時間の発作的ともいうべき短時間での決意をするかという疑問もある。ただ、光秀の思考プロセスをあまりこだわらなければ、このまたとないチャンスをみての下克上説は、あまり、弱点がない。結果にしても、そんなあわててやったから、ボロがでたのだという説明も成立する。
他方、この京都における空白について、もう一人自覚していた人物がいたと思うのである。それは秀吉で、黒幕とはいえないが、秀吉は、ある程度予知していたのではないかと考えている。秀吉と光秀は、織田家における最大のライバルだから、お互いに信長殺害の陰謀を相談するというのは、ほぼありえないだろう。しかし、そうしたお膳立てをしたと考える余地はある。しかも、だれかに相談しているわけでもないから、実現しなくても問題ない。何故そう思うのか。
1 秀吉は、おそらく、信長が考えられているほどには、革新的ではなく、むしろ古い体質をもっていたことを、次第に感じだしたのではないかと思う。それは、安土城の建築だ。秀吉は、安土城のような城を築いていない。私は、安土城の修復が始まった最初期に、城跡を訪れたことがある。当時は、まだ石垣が再建されているようなときで、建物は、ほとんどなかった。今はもう少し修復が進んでいるだろう。安土城は、革新的な城だと、学校の歴史では教えるが、私が訪れての印象は、完全に古いタイプの城である。完全に山城なのだ。建てられている場所は、琵琶湖のほとりだから、山城とはいえないが、平地のなかの小高い丘に建っており、しかも、天守閣にいくには、そうとう骨が折れる。それほど高いのだ。岐阜城に比べれば緩いが。途中に家臣たちの邸宅跡があるが、秀吉宅は一番下にある。秀吉は、平城を建築した。そして、江戸時代になっても、山城などは既に旧世代のものになっている。信長は、かなり統一の進んだときに建てたにもかかわらず、こんな「守りの城」をつくったことに対して、秀吉は、信長の限界を感じたのではないかと思うのだ。そして、いつか自分が取って代わりうると密かに思ったとしてもおかしくない。
2 信長をわざわざ援軍として呼ぶ必要はないのに、信長に毛利征伐の援軍を頼んでいること。当然、秀吉は、信長の統率する軍隊の、当時の配置をすべて理解しているだろうし、光秀が見いだしたように、京都に武力の空白が生じていることも承知していたはずである。可能性としては、光秀を挑発した可能性はあるが、自ら挑発しなかったとしても、光秀に謀叛を起こす可能性は、多少とも感じていたのではないだろうか。秀吉黒幕説の根拠は、本能寺の変後の処理があまりに鮮やかだったことであり、それが黒幕説の証拠にはならないとしても、ある程度の可能性(謀叛を起こす者が光秀でなかったしとても)を予知していたことの根拠にはなると思う。小説では、あまりの驚愕にどうしていいかわからなくなった秀吉に対して、黒田勘兵衛が冷静に、チャンスだ、というようなことをいって、秀吉もそのことに気づいたが、逆に勘兵衛への警戒心を起こすきっかけにもなったという場面が、よく出てくる。しかし、黒田勘兵衛が感じたことを、秀吉が感じていないはずもない。
要するに、秀吉が黒幕として動いたわけではないが、秀吉が、信長に援軍を頼むことによって、信長は光秀を先発させ、信長が後追いする状況を作り出した。秀吉くらいの人物が、そういうときに何が起きるか、まったく考えもしなかったとは、思えないのである。
私は、本能寺の変に関して、最も強い疑問を感じるのは、何故光秀が謀叛を起こしたのかということより、むしろ、何故信長が、京都にまったく無防備な状態で数日間を過ごしていたかという点だ。いくら信長が京都を抑えているとはいっても、下克上の時代が終わったわけでもなく、京都は政変が頻繁におきている場所であり、かつ、信長への謀叛が、既に何度か起きていたことを考えれば、京都に、十分な兵をともなわない形で、滞在していたことが不思議に思えてならない。信長の軍隊の詳細は理解していないが、光秀の軍隊といっても、大半は信長の軍隊であって、それを光秀が指揮するということが多いはずだ。それならば、その軍隊は京都に留めおいて、光秀とともに送り出すという形になるはずだ。そうではなく、光秀に自分の領地(丹波)で徴兵して、その軍隊を率いて、秀吉軍を援助するために出かけるならば、当然、目付のような役人がついているはずである。いずれにしても、まったくの油断のなか、襲撃されてしまったのが不思議だ。
同じようなことだが、この少し前に、徳川家康が安土にきて、饗応を受けるわけだが、そのあとの堺見物の途中で本能寺の変が起きることになる。そして、命からがら岡崎に逃げ帰るわけだが、そのときにも、家康はあまり大人数ではなかったということになっている。この戦国時代に、家康ほどの大大名が、それなりの軍隊を引き連れずに近江までやってくるというのも、本当だったのかと疑ってしまうほどだ。織田の領地を通過してやってくるわけだから、確かに戦闘状態の大軍とともに上京するわけはないとしても、帰り道に危険を感じるほどの少人数というのは、どうなのか。若い信長が、舅の斎藤道三にあうために、国境に出かけたときにも、かなりの軍勢をつれていったことになっている。家康が安土にやってきた当時、信長は、関東に滝川、北陸に柴田、中国に秀吉を派遣して、戦闘状態になっており、さらに、丹羽を四国に派遣することになっていた。それでも、京・大阪は平和な地域になっているとでも、信長も家康も思っていたのだろうか。信長が、当たり前の軍勢を揃えて京に滞在しているとすれば、光秀も謀叛など起こさなかったはずである。しかも、信長は、これから秀吉の援軍にいくはずだったのではないか。
光秀謀叛の理由と、信長の安易な行動の理由、両方が謎だ。