犯罪加害者の表現の自由2

 では、犯罪者自身が、表現活動を行うことをどう考えるのか。
 まず、事実として、インターネットが普及している現在では、それを完全に禁止することはできない。できないことをやろうとすることは無意味である。また、話題性をもつものであれば、営利的な公表手段を提供する企業が出てくることも避けられない。もちろん、それを野放しにしていいかは、別問題としてあるだろう。今でも話題になる女子高校生を40日間監禁して死に至らしめた事件は、単にニュース、ワイドショー、週刊誌で大々的に取り上げられただけではなく、映画にもなり、私は見ていないかが、報道によれば、興味本位的、醜悪な内容で、被害者の関係者を酷く不快にするものだったという。被害者側に精神的打撃をあたえるような内容の公表に対しては、不法行為を積極的に認定するという抑制手段もある。
 犯罪加害者側が表現活動を行うとすると、それはどういう目的があるのだろうか。
考えられることは以下のようなことだろう。
1 生活のため。刑を終えても前科者になるから、通常の職業について、安定した生活を営むことは困難な場合が多いだろう。話題になった事件であれば、売れるので、生活の手段として刊行する。本人の執筆能力がなくても、ゴーストライターを用意して出版してくれるところはあるはずである。『絶歌』は、この類だと思われる。 (おそらく佐川や市橋の著作もここに分類されるだろう。)
2 収入を被害者への賠償にあてる。サムの息子法は、これを強制的に実施させるための法である。被害者側は、損害賠償を求めるだろうが、加害者側にその能力があるとは限らない。『少年A この子を生んで』がこの例である。
3 加害者本人が、反省、自己発見等のために書く。犯罪者も、ほとんどは社会に復帰するのだから、当然更生して復帰することが、本人にとっても、また社会にとっても望まれる。少年院などで反省文、日記などを書かせることが多いが、文章を書くことは、自己を見つめなおすいい契機である。だから、加害者が更生する手段として、そして、それを社会の批判に晒す勇気をもつという点で、このことは決してマイナスではない。永山則夫の著作は、この例であるといえる。
4 当事者しかわからない情報を提供して、教訓として社会に受とめてもらう。諸刃の剣だが、必要な情報だと理解すべきだろう。オウムの反省したと思われる幹部が書いた手記は、これにあたる。

 『絶歌』は1、つまり生活のためと、私は理解しているが、出版社は、4であると主張しているようにみえる。出版が事前に噂になり、前から出版すべきではないという批判が多数あった。それを踏まえて、太田出版に以下のような文章を、ホームページに掲載し、それは今でもある。http://www.ohtabooks.com/press/2015/06/17104800.html
 「本書の出版がご遺族の方々にとって突然のことであったため、あの事件をようやく忘れようとしているご遺族の心を乱すものであるとしてご批判を受けています。そのことは重く受け止めています。
 私たちは、出版を検討するにあたり、その点を意識しなかったことはありませんでした。本書がその内容よりも、出版それ自体の反響として大きくマスコミに取り上げられるであろうことや、それによって平穏へと向かいつつあるご遺族のお気持ちを再び乱す結果となる可能性を意識しました。
 それを意識しつつも、なお出版を断念しえず、検討を重ねました。
 出版は出版する者自身がその責任において決定すべきものだと考えます。出版の可否を自らの判断以外に委ねるということはむしろ出版者としての責任回避、責任転嫁につながります。
 出版後、ご批判の声が多数届いています。同時に「少年Aのその後が気になっていたので知ることができてよかった」「自分の息子が将来加害者の側になるのではないかと心配している。少年Aの心の動きを知ることができて参考になった」等のご意見も多数いただいています。
 私たちは、出版を継続し、本書の内容が多くの方に読まれることにより、少年犯罪発生の背景を理解することに役立つと確信しております。」

 少年犯罪発生の背景を理解することに役立ったかどうかは、読者が判断すべきことであろう。私は、『絶歌』単独では、その点での有益な理解を得られたとは思えなかった。むしろ、親の『少年A この子を生んで』と併読することで、考えさせられた点は多々ある。悪いことをする子どもは大きな嘘をつく、悪いことが拡大していくとき、親はそれを見抜けなかったり、深刻なことと受け取られないという事例だろう。これは、親の学歴とか、知識とか教養というレベルの問題ではない。地域の有力弁護士の父と東大卒の母親をもつ佐世保の少女が、同級生を殺害した事件では、小学生のころから、問題行動があったにも関わらず、親はうやむやにしてきた。高齢で宗教活動をしている女性をアパートに誘い出して殺害した名大の女子大生も、小学生時代から、薬物に興味があり、実際に同級生に飲ませたりしていた。祖父は有名な大学教授であり、父親は定職をえていなかったが、研究者であった。このふたつの例は、世間的には、極めて知的レベルの高い親であったにもかかわらず、子どもが犯罪者として育っていく過程を止めるところか、促進してしまっている。
 人間は、全くの無から学習することはない。必ず、既存の事物、情報を外部から得て学習していくものだ。この3例は、いずれも小学生のときから、犯罪の芽となる行動をしており、それを周囲の人たちは知っている。 
 当時の報道では、かなり早い時期からAが疑われていたという者が少なくなかったようなことが書かれていたと記憶するが、『絶歌』からは、彼がなにから「学習」したのかは、読み取ることが難しい。少年院で読んだ難しい本からの影響か、わざと凝った文体で当時を振り返るので、結局、自分を飾ってしまうことになる。
 残念なことに、この書物が先の4としての意味をもっているようには、読めなかった。アマゾンのレビューの星1つの評価が半分以上というのは、そのためだろうと思う。(続く)

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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