『教育』2019.7を読む 自由と向き合う自由の森学園の模索

自由の森学園とは
 「子どもが決める」特集のひとつとして、自由の森学園の校長新井達也氏の「自由という難解と向き合う」という文章が掲載されている。「自由の森学園」は、埼玉県飯能市にある私立の中学・高校である。非常にユニークな教育をすることで、注目を浴びており、私のゼミの学生が卒業論文で取り上げたこともある。何度も、学園にいってインタビューをし、特に通常とは全くちがう卒業式も見に行って映像を撮ってきたのを見たが、興味深かった。細かい校則や指定の服などがないだけではなく、いろいろな行事を生徒が主体となって行うことで知られている。
 しかし、そこにはなかなかたいへんな事情もあることが、新井氏の文章で紹介されている。
 まず「生徒会」がなく、行事などは、その都度「実行委員会」によって運営する。「今年はこの行事をやるのかやらないのか」から始まって、コンセプトが決まると各係の活動が始まる。体育祭、学園祭、音楽祭の三大行事とともに、入学式、卒業式も生徒の実行委員会で行うという。
 しかし、2014年に、高校3年生数名が、行事の立ち上げについて疑問があったので、教員や生徒に問題提起したのだが、全校で話し合える機会がなかったという不満が、卒業式でだされたという。そこで、ホームルーム連絡会などで情報交換してみたが、長続きしなかった。生徒会が必要なのではないかという意見もだされたが、上からつくる生徒会に対する疑問もだされた。一方、生徒たちが話し合う力が低下しつつあるという声もでているという。そもそも、話し合うという機会が圧倒的に少ないことが影響してるので、もっと話し合うこと、聴きあうことの必要を感じている、とこの項目は結ばれている。
生徒主体を抑圧した事件
 この文章を読むと、以前埼玉県の所沢高校で、生徒会主体の入学式・卒業式を行っていたところ、県がそれをつぶすために、校長を入れ換え、学校主催の儀式に強引にいれかえ、生徒会側と対立したという「事件」を思い出す。実は、似たような「事件」は、私の近くの地域でも起こっており、生徒主体の行事をしている高校を、同じように抑圧したのも同じである。産経新聞が、こうした高校をさんざん非難するような囲み記事を連載していたが、「教育的識見」を微塵も感じさせない記事だった。こうした生徒主体の行事を潰すことが、県教育委員会の主導で実施されるということは、単に県の特殊性のようには思えない。おそらく、文科省の政策のなかに、そうした要素があるのだろう。文科省は、学習指導要領で、主体的に考えたり、問題を解決することを重視しているが、実際に行っていることは、そうした能力の抑圧ではないのかと疑わざるをえない事件であった。尤も、今ではそうした抑圧の姿勢を反省して変えたのだろうか。だが、今では、自由の森学園のような、優れた目標をもった学校でしか、生徒が主体的に取り組むなどという姿勢は見られないのかも知れない。
 だが、こうした行事を生徒主体で行うことは、本当に生徒たちの成長を促進する上で重要なことなのである。自由の森学園のこうした取り組みは、本当に貴重で、高く評価されるべきだ。
困難な状況について考える
 この文は、後半で、教師たちの研究会について触れているので、ふたつの内容が書かれているが、「子どもが決める」特集にふさわしいのは、こちらの行事に関する内容なのだが、研究会の文章はすっきりしているのに比較して、こちらは、何度か読み直しても、伝わらないところがある。
 行事の実行委員会は、「今年この行事をするかどうか」から議論を始めると書かれている。そうであるなら、疑問を感じた生徒は、この実行委員会に出て、今年はこの行事をやめようと提案すればよかったし、またそういう方法があるわけだが、それを活用しなかったのだろうか。そこがよく分からない。疑問を感じた生徒の言葉として紹介されているのは、「全校で行う三大行事の立ち上げについて疑問を感じ」ということなのだから、実行委員会の最初に行う議論そのものではないかと思われる。新井氏は、その点については触れないで、いきなり「全校集会の場は情報を共有したり、問題提起したりする場になっていますが」と書いているが、当該生徒の話では、全校集会に提起したとも触れられていない。そもそも全校集会なるものが、どういうものか書かれていないので、よくわからない。
 すべて行事は、実行委員会で決め、運営するとなっているのか。
 実行委員会は、本当に「やめる」という選択が可能なのか。やることが前提になってはいないのか。
 これまでなかった行事をしたいと思ったら、やりたい者が実行委員会を勝手に作ることが認められているのか、あるいは、ある種の手続きを経て、実行委員会が設置されるのか。その場合の手続きはどんなものなのか。
 このようなことが、よくわからない。生徒の疑問の提示のあとは、全校集会は問題提起、そして、ホームルーム連絡会と続き、そして、生徒会を置くべきかの議論があったという話になっている。これだけ読めば、疑問を感じた生徒は、実行委員となって廃止提案をする、あるいは、全校集会で問題提起をする、という方法があったのに、実際にはそうしなかったように感じられる。個人的に仲間と話しただけであるとすれば、委員会なり集会が、形骸化していたということになる。それなら、生徒会をつくってもたいして機能しないかも知れない。
 更に、最近の生徒は話し合いが下手だという話につながっている。
主体性の尊重と指導との矛盾
 ただ、自由の森学園の教師たちが、生徒会を作ることを躊躇した理由は理解できる。生徒たちが決める場として生徒会を設置する、それを教師が決めることが、本来の目的と矛盾するではないか。生徒たちは要求が出るなら別だが、そうした要求が出てくるわけでもなかったのだろう。それを、話し合いが下手になっていると表現したのかもしれない。
 しかし、そういう矛盾は、もともと教育そのものの矛盾である。最もよく成長するのは、自発的な欲求に基づいて学習するときである。しかし、教師は外から学習を組織する存在である。だから、矛盾であるとはいっても、やはり、教師の側から提起することは避けられない。あるところで「退く」ことを忘れるべきではないのだが。
 本当に生徒たちが話す力が低下したのか。
 私の実感では、小学校を訪れる感覚でいうと、ここ数年、小学校では話し合いが重視され、算数の時間なども話し合いがもたれている。そして、自分の見解を誰かに説明するという場を、多くもっている。だから、以前よりは、ずっと話し合いの機会が多くなっている。話し合いをすれば、自動的に上手になるわけではないだろうが、しかし、しないよりはするほうが上達の可能性は高い。
 どんなにりっぱな原則であっても、人間が実行する以上形骸化を避けられない。もしかしたら、自由の森学園のこうした取り組みが、形骸化しつつあり、そのために、話し合いに対する意欲が低下しているのかも知れないと、思ったのだが、どうなのだろうか。
 『教育』を読むシリーズとして書いているので、この文章は、「子どもが決める」という特集から、後半の教師の研究会はなくてもよかった。上記のような疑問は当然でるので、そこを詳しく書いてほしかったと思う。しっかり分析することで、活性化の方法がみえてくるはずである。新井校長自身が、「子どもが決める」ことに、全般の自信を持てなくなっているのではないのだろうか。そんな疑問ももった。

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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