『教育』2019.7を読む 子どもが決める

 『教育』7月号は、教師と子どもの主体的に関わるシステムについて特集されている。今回は、山本敏郎「アソシエーション過程としての自治」を取り上げる。
 山本氏の主張をまとめると以下のようになるだろう。

 「現在の児童会・生徒会は、学校の管理-運営に対する「協力参加」であり、しかも、集団つくりにとって貴重な学級会活動は、1989年の学習指導要領から学級指導と統合され、学級活動になっており、学級の子ども組織は公式に存在しないことになっている。子ども自身にかかわることがらについては、子どもの権利条約などで認められているが。(意見表明権)
 組織は、主体的・能動的・意識的に結びつくアソシエーションと、他人によって結びつけられたコンバインドというふたつがあり、コンバインドとしての児童会・生徒会をアソシエーションに転換していく実践が望まれる。子どもの権利条約では、「子どもの見解が、その年齢及び成熟に従い、正当に重視される」としており、管理者と交渉する権利が認められるべきである。権力過程としての教師の主導権を、子どもに奪い取らせる過程として自治的集団づくりが実践されてきた。それこそアソシエーション過程である。特定の問題関心や共通の趣味などの有志の自発的な組織づくりをすすめてきた。問題解決のための当事者グループ、クラブ・サークル的なグループ、援助のためのボランティアグループ、社会的な問題に関心のある社会運動グループなどである。」
 以下代表・執行という、いわば政治学的領域の議論があり、学校行事への自治的取り組みについての困難、つまり、行事そのものをやらないという選択肢がないのに、自治が成り立つかという問題であるが、これは、足に障害をもったクラスメートをリレーに出場させるかどうか、させるとしたらどれだけ走らせるかという議論を通して、価値観の共有がなされていったという実践を紹介している。

 全体を通して、山本氏の主張に共感するが、現在の学習指導要領を前提とした活動では、どうしても矛盾が出てくるという壁を、山本氏が論理として克服しているようには見えない。それは不可能なことなのだといったほうが正確だろう。現在の学校システムは、コンバインドな組織であり、更に児童会や生徒会は、教育的目的で設定されている組織だから、更にコンバインドである。そこに、なんとか、子どもたちの積極的な意思を組み込んだ活動を実現したいということは、高く評価すべき実践であるが、だからといって、それがアソシエーションとして機能していることにはならないだろう。もちろん、コンバインドな組織の中で、自主的活動が不可能だということではない。
 しかし、ここでは、あくまでも今可能な実践という枠を離れた制度論として、議論してみる。
 日本の児童会や生徒会に対置してみたいのは、オランダの学校運営である。もちろん、オランダの学校も一番トップには、校長がなっており、最高責任者として学校を管理運営している。しかし、その下に、教師、生徒、親の代表者が参加する協議体が設置され、同意事項(校長も協議体の同意がないと正式決定できない)、助言事項(協議体は助言できるのが、校長はそれを受け入れないことも可能)等が具体的に決められている。教師、生徒、親は、それぞれの団体から選ばれた代表が参加し、その権限の中で影響力を行使できる。
 山本氏がいうように、日本の生徒会は、校長の権限を侵さないように、学習指導要領で規定されているが、オランダは、校長の権限を、一定程度侵すように規定されているのである。
 では、オランダの学校や生徒会、親の会は、アソシエーションなのか、コンバインドなのか。そもそも、コンバインドは、上からの管理のための組織なのだから、生徒会や親の会が、校長の権限を侵すようなルールができるはずがないだろう。しかも、生徒会も親の会も事実上は、全員加盟の組織である。アソシエーションであるためには、最初から全員参加ではないはずだ。
 とすると、アソシエーションとコンバインドという組織原理の設定が間違っているのだろうか。
 そうではない。オランダの学校は、日本の学校とは根本的な相違がある。日本の公立義務教育は、基本的に通学区指定で、学校そのものがコンパインドであることは自明だが、オランダの学校は、すべて選択制度が貫徹している。小学校も、中等学校も、そして大学も、すべて進学者が個別の学校を選択するのである。もちろん、中学校を選択するためには、小学校を正規に卒業認定されていなければならない。大学に進学するためには、中等学校の卒業資格を得ていなければならない。しかし、それを得れば、自由に(定員が一杯になったために断られることはあるが)学校を選べるのである。従って、自発的な意思によってその組織(学校)に加わるゆえに、学校自体がアソシエーションと位置づけることができる。(このふたつの概念よりは、私は、日本の学校の特質を表わすのに、テンニエスのゲゼルシャフトとゲマインシャフト概念のほうがうまく説明できると考えている。学校は、目的にもとづく選択意思で成立するゲゼルシャフトであるが、日本の学校は、本質意思によって成立する組織のように扱われることが多い。独特の集団意識や仲間意識が強調され、まるで家族のようになろうとする。この分類でいえば、オランダの学校は、明確にゲゼルシャフトなのである。)学校は、ゲゼルシャフトなのだから、原則的に選択意思によって成立するのが、最もよく機能するのである。いいかえれば、学校自体をアソシエーションとして構想しなければ、子どもたちにアソシエーションとしての、つまり、自主的、自治的な活動を可能にすることは、難しいのである。

 山本氏が高く評価する実践は、当然私もそう思う。コンバインドである学校の中で、どのようにアソシエーション的な活動ができるか、それを追求することは、重要であり、コンバインドではアソシエーションなどは不可能だといって、何もしないことは、批判されるべきだ。
 しかし、現場の教師ではなく、教育研究者である以上、もっと根源的なレベルで問題に入り込む必要があるのではないか。教科研には学校選択に反対する人が多いから、この問題は再度論じてみたい。

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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