今回は、民主主義における基本的人権と組織の権利について考察してみたい。藤田氏が、著作や記者会見で公表する前に、何故党内で意見を述べなかったのかと批判していることは、前回紹介した。実際に松竹氏が、党内で意見を述べていたかどうかについては、よくわからない。松竹氏の本書において、その点は触れられていない。実際には、身近なひとたちに言っていただろうと思うが、少なくとも党本部に対して意見具申はしていなかったという前提で、考えてみたい。
お断りしておくと、私は共産党の人間ではなく、内部や規約のことは知らない。こうした本や記事に引用されている限りで知っているだけである。だから、現実の党への提言などをするつもりで書いているわけではなく、あくまでも現在の日本における組織のあるべき姿を、考えようとしているだけである。
前回引用した規約3条の「民主的な議論をつくし」と「意見がちがうことによって、組織的な排除をおこなってはならない」のふたつをどのように、この事例で考えるか。
藤田氏の文章や志井委員長の記者会見を読むと、松竹氏の意見公表は、規律違反であると非難しているように見える。可能性として、松竹氏が規律違反でなんらかの処分を受けることもありうるような書き方だ。
まず確認しておきたいことは、民主主義社会において、民主主義を求める組織は、組織内でも民主主義的な権利、日本でいえば、日本国憲法によって保障された基本的人権は、当然のこととして守られなければならない。つまり、権利という点で、「部分社会論」(部分社会内においては、一般社会での規範から逸脱することを認められるという論)をとれないということだ。規約によれば、意見が違うことはありうることとして認定されている。だからこそ、「民主的な議論をつくし」とされているのだろう。従って、多数とは異なる意見を表明することも、認められている。しかし、藤田氏は、内部での意見表明ではなく、党外で公表したことを規律違反だとしている。もし、党規約として、党外で党の主要な立場を批判する見解を公表してはならず、必ず党内で意見を述べなければならない、と規定しているとしたら、それはどうなのだろうか、というのが、まず最初の検討事項である。
国家レベルで考えてみよう。基本的人権として、思想の自由と表現の自由が保障されている。だから、日本国民が、政府の政策を批判することは自由である。しかるべき国内の特定の組織に意見を表明することは構わないが、自由に雑誌などに執筆することは、表現の自由の範囲外で認められない、などということはない。どこに、発表してもよいし、外国で表明しても、違法ではない。表現の自由を制限するのは、発表場所などではなく、他人の権利を侵害する場合だけである。もちろん、現実的には、自民党政府が、メディアに圧力をかけて、政府に批判的な文章や番組をできるだけさせないように働きかけている。しかし、それは、憲法的には容認されることではなく、訴えと証拠があれば、停止命令や賠償命令がだされるはずである。現状として、政府を恐れるメディア側が、圧力に屈して自己規制しているから、司法の場にだされないだけだ。憲法上の判断は明確である。
党に関する問題は、党内でのみ意見表明できる、外部で公表したら、罰するというような規約があるかどうかは、私は知らないが、もし、そういう規約があったとしたら、それは妥当なのだろうか。当然、そうした形は、憲法が保障する表現の自由ではなく、制限的なものだから、部分社会論としての妥当性があるかということになる。その妥当性は、憲法の認める表現の自由を、最初に述べたように、組織内において、より実質的なものにするものでなければならない。
かつて、ソ連共産党は、ブルジョア民主主義とプロレタリア民主主義という区別をたて、ブルジョア民主主義における「表現の自由」を批判したことがある。表現の自由といっても、表現手段を活用できるのは、一部の金持ちや知識人だけで、一般市民は、意見を公表、表現したいとしても、そんな手段はもっていないではないか、という批判である。それに対して、ソ連では、労働組合に対して、印刷機械や紙を保障しており、一般市民の広い範囲が、表現手段を確保しているというわけだ。
実際に、ソ連がそのように市民に表現の自由を保障していたと信じる人は、あまりいないにしても、その論理は重要だろう。意見を表明する権利があり、十分な議論が保障されていたとしても、実際には手段がないために、実質的には制限されているということも珍しくない。
松竹氏の本書によれば、党員は、所属する部署があり、その部署以外の党員のことは知らないし、また、知っていたとしても、党員として接触することは禁止されているのだそうだ。実態はわからないが、もしそれが事実であるとすれば、松竹氏が、党首公選論を党内で提起しようとしても、自分の所属する組織で述べるか、ある特定の上位機関に文書で送るしかないことになる。自分の見解を広く、一般党員に示すことは、組織的に無理だということになっているようだ。機関に送ったとしても、藤田氏のような人がそれを受け取っても、党の原則に合わないといって、握りつぶされる可能性が高いに違いない。
今やブルジョア民主主義社会ですら、インターネットを介して、ごく普通の市民でも、意見を世界に向けて公表できる時代である。もし、民主主義をめざす組織が、一般的には認められている表現の自由を、組織内で認めないとしたら、「民主主義を目指している」こと自体に疑問をもたれるはずである。
意見表明という範囲であれば、どこで表明しようとして自由でなければならないということだ。それが、現代の権利概念であり、組織であっても同じなのではないだろうか。(もちろん、職務上の守秘義務などは認められる必要があるが。守秘義務違反で、情報を漏らすことは、意見表明とはまったく関係ない。)
結論としては、一般市民として、常識的に判断する限り、民主集中制に関して規定した規約3条に照らして考えてみれば、実際に決定に反することを行動で示すのではなく、意見表明である以上、広く自己の見解を示す機会が保障されるべきである。もし、組織メンバー全員に、容易に届けることができない形態になっているのであれば、一般公開することは認められる必要がある。もし、そうした議論を制限するのであれば、組織メンバー全員に、容易に公表できるシステムを保障するべきであろう。そうでなければ、実質的な表現の自由、議論を尽くすということ自体が、絵に描いた餅でしかなくなる。松竹氏の党首公選論は、しっかりと取り上げるべきであるし、また、そうした意見を公表したことは、党としても表現の自由として認めるべきであろう。もし、規律違反として、氏が処分されたりしたら、党のイメージは、さらに低下するに違いない。
また、松竹氏のいうように、党首公選が実現すれば、共産党のイメージもかなり改善されるはずである。