再論 学校教育から何を削るか17 入学試験制度3

 最期に、入試を廃止することなどできるのだろうかという、誰もが感じる疑問について考えてみよう。
 私が学生時代、「教育法」の第一人者であった兼子仁先生の授業で、兼子教授は、「日本の入学試験というのは、できる限り早く廃止したいですね。」と講義で述べたことがある。学生たちは、意外な主張に驚き、ほとんど茫然自失の体だったと記憶している。私もそうだった。「そんなことできるはずがない。」そのときだけではなく、ずっとそう思っていた。しかし、大学に勤めるようになり、研究の関心がオランダに向くようになって、オランダの教育を研究するようになると、そこには、入学試験制度そのものが存在しないことがわかった。別にオランダだけではない。ドイツにもフランスにもないのだ。(フランスはグランゼコールという超エリートの高等専門学校には入試がある。)中でも、オランダは、学校を当人が選べるという点で、際立っていた。もちろん、ハードルはある。尤も、オランダに限らず、入学試験制度が一般的に存在しない国でも、ある種の学校には、入学試験があることもわかった。それは、芸術系の学校である。芸術家を養成する学校では、もちろん、芸術的才能がないと話にならないから、当然、芸術的才能の程度を調べる試験を課す。ただ、それは入学試験とは呼ばれず、オーディションと呼ばれていた。実態は、入学試験であるが。

 以後、芸術系の学校での入学試験は例外として、一般の学校について述べる。
 
 上級の学校に進学できる条件をどのように考えるのか、がまず問われることである。これには、ふたつの異なる原則がある。
 第一は、下級の学校の課程を修了した者は、接続する上級学校に進学できる形である。
 第二は、上級の学校での学習に求められる能力を認められた者が、上級の学校に進学できる形である。
 欧米は、このふたつの原則を、広い意味での普通教育を第一の原則で、特殊な能力や高度の専門教育を第二の原則で進学制度を構成しているといえる。もちろん、国によって多少の原則の混在はあるが、比較的論理的にその使い分けがなされているオランダとアメリカの事例でみよう。
 アメリカは、大学まで一般教育が建前で、高校の途中まで義務教育だから、競争的な選抜はなく、州立大学は、高校の成績と全国の資格試験(SAT)で規定の成績をとれば、州立大学への入学が可能である。専門教育は大学院で行なうので、大学院に入るためには、入学試験がある。学校体系は、日本と同じ単線型である。
 オランダは、12歳で3つの類型(大学に接続する6年制、高等専門学校に接続する5年制、中等専門学校に接続する4年制)の中等学校に分かれ、それぞれ上級の専門課程も各類型に接続している。ただし横への編入は可能だから、選び直しができる。基礎学校から中等学校、更に大学・専門学校への進学は、卒業資格が入学資格になる。
 
 つまり、入学試験がないがハードルはある。そのハードルは、下級学校の教育課程を修了し、卒業が認定されたことである。ドイツのアビトゥアとかフランスのバカロレアは、あくまで高校の卒業認定試験であって、高校で学んでいることが修得されているかを認定する試験である。場合によっては、更に資格試験が課せられることもある。ただし、私立の学校には選抜があるが、定員を上まわり志願者がある学校は、それほど多くないので、そうした少数の私立大学は、競争的な選抜が行なわれる。しかし、その場合でも、日本のように一カ所に集められて、そこで入試問題を解くような作業はないといえる。
 どの高校、どの大学に進学するかは、求められる成績に条件があるとしても、基本的に生徒の選択である。
 もうひとつの問題は、誰がハードルの実行を担うかである。卒業試験であれば、当然、大学ではなく、高校側になる。また、アメリカの私立大学のように、かなりハードな選抜がある場合でも、大学の教員はまったく無関係である。アドミッション・オフィスという部局があり、そこに専門のスタッフが常駐して、選抜作業をしているのである。
 このことでわかるように、高校側も大学側も、教育に携わる教師たちは、選抜業務には関わらず、本来の教育活動に専念できる。日本で多くの教師が受け持っている「進路指導・進学指導」は、教師の役割ではないのである。
 
 競争的な受験による教育と、学校の学習として基準を満たせば、上級学校に進学できる教育と、どちらがよいのか、それは各自の教育観を問われることだろう。どちらが絶対的に正しいとはいえないかも知れない。
 日本の入学試験が特殊なものだからといって、それは直ちに、よくないものだということにはならない。事実、よい面もあるだろう。『ジャパン・アズ・ナンバーワン』のなかで、フォーゲル教授が、日本のように、偏差値で学校が分けられていると、その周辺の生徒が受験するので、実質的な競争となり、みんなよく勉強する。しかし、アメリカのようなシステムだと、すごく実力のある生徒は、大丈夫だからといって、あまり勉強しなくなるし、また、かなり合格に遠い水準の生徒は、諦めてしまい勉強しない。日本は、満遍なく、それぞれの場で勉強するのでよい、というようなことを書いていた。確かにそういう面はあるだろう。ただ、実力のある生徒が勉強しないというのは間違いで、自分のやりたい勉強を、入試とは無関係にやるのではないかと思う。
 しかし、そうした教育が限界をもっていることは、否定できない。
 そうした競争的な受験体制で学ぶことは、定型化された知識や技術であり、それは、多くの人が指摘するように、工業社会に適した学習なのである。しかし、現在では、定型化された知識・技術だけではなく、革新をもたらすような能力・技術、そして、革新された状況に適応できる能力・資質が求められている。それは、定型化された教育では達成困難な課題であることは、明らかだろう。与えられた課題を解くだけではなく、課題を見つけ出したり、あるいは自分で課題を作り出す学習が必要となっている。受験に勝つために行なう勉強では、そうした課題発見的な学習ができないだけではなく、そうした能力や姿勢を阻害してしまうことになる。
 初等中等段階の日本の子どもたちは学力が高いが、高等教育になるととたんに低くなるというのは、昔から言われていた。それは、とにかく、高校受験、大学受験があり、よく勉強するからだが、今や、大学全入となり、勉強する圧力が格段に下がっているから、初等中等段階の優位性もなくなりつつある。そして、大学は、定型的な教育の部分は少なくなるから、日本の大学生の力が伸び悩むことは、驚くにあたらない。
 
 入試がなくなったら、皆勉強しなくなるのではないかという危惧があるだろう。以前、学生たちに、受験がなくなったら、自分はもっと勉強するようになった、逆に勉強しなくなった、という問いかけをすると、ほとんど全員が勉強しなくなると答えていた。受験体制で生きているのだから、当然だろう。
 ここに教育観が端的に問われる点である。
 人間は誰でも知的好奇心をもっており、それぞれが向かう対象は千差万別だが、興味のあることは懸命に知ろうとするし、勉強するものだ。そして、そういう勉強こそが、未来を開く資質を形成していくのである。だから、それぞれの興味を最大限尊重して、多様な学習を保障することが、今後の教育にとって、最も必要かつ有効なのであって、定型的な学習を強いる受験体制は、そうした有効な教育の最も大きな阻害要因なのである。
 必要な教育を実現し、教師の過重労働をなくすためにも、入学試験制度は廃止しなければならない。

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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