読書ノート『シン日本共産党宣言 ヒラ党員が党首公選を求め立候補する理由』松竹伸幸(文春新書)1

 ここ数日、共産党員の松竹伸幸氏が、『シン・日本共産党宣言』という著書を出版し、それにあわせて記者会見をしたことが話題になっている。その動きを知ったのは、実は昨日なのだが、記者会見は19日であり、この本の奥付の出版日は20日である。記者会見では、党首公選を主張し、実現したら自分も立候補すると表明したようだ。各種新聞に出ている。そして、21日に、共産党の赤旗が、「規約と綱領からの逸脱は明らか――松竹伸幸氏の一連の言動について」と題する赤旗編集局次長藤田健氏の反論を掲載した。
 そして、23日に、志井委員長の記者会見があって、藤田見解につきていると述べたという経緯である。
 党内事情はまったく知らないので、裏事情はわからないし、また興味はないが、以前から関心をもっていた党首公選制については、やはり、考察しておきたいと思って、本書を早速購入し、読んでみた。

 
 基本的な問題は、「民主主義とはなにか」ということに帰着する。そして、忘れてはならないのは、民主主義の形態は、欧米の市民革命以降現実になったが、それ以来、その実態も大きく発展してきたことである。民主主義の根幹をなす「選挙権」をみても、当初はどこも制限選挙であるが、次第に制限が緩和され、そして普通選挙に至っている。そして、女性にも拡大するという展開があった。また、アメリカでは、形式的には選挙権があっても、実際に行使が困難だった黒人たちが、実質的に選挙権を行使できるようになったのが、1960年代の公民権法以降であった。
 このことだけでも、民主主義をどのような姿として描くについても、かなりの議論を必要とするのである。
 また、民主主義にとって、何が最も判断指標となるか、という点でも、大きな変化があったといえる。当初は選挙権や自由権の保障などから始まり、社会権の保障、平等の実現などが、評価基準であったが、近年では最も重視されているのは、「透明性」である。党首公選は、おそらく「透明性」を高めるために必要であると考える人が多いのではないかと思うのである。
 
 さて、本書は、党首公選を実施していないのが、共産党と公明党だけであり、他党はすべて実施しており、特に自民党などは、この公選過程が大きく報道されていて、党勢拡大の大きな力になっていることから、共産党も実施すべきであるというのが、最も主張したいことである。まず、党首公選が共産党にとって必要な理由を3点あげている。
・他党が実施し、国民的な常識になっているから
・党員の個性が尊重され、国民には親しみが生まれるから
・党員の権利を大切にするため
 そして、党首公選が党の自己改革を促していくという章に続けている。
 確かに、岸田首相が誕生したときの、自民党の総裁選は、メディアか大々的に取り上げただけではなく、かなり主張の異なる候補者が4人もでて、活発な討論を展開したため、国民に強い印象を与えたし、自由な考えをもち、表明することが可能であること、しかし、選挙されれば、また党としてのまとまりを見せることを、示し得たと思う。ただ、立憲民主党の党首選挙は、似たような主張ばかりで、盛り上がりが欠け、国民にある種の失望感を与えたという印象を、私はもった。しかし、党首の選抜過程はよく理解できた。
 こういうなかで、党首選びが、国民にみえない形で行なわれることが、マイナスの印象を与えざるをえないのも、実感としてある。だから、松竹氏の主張は、共感できた。
 
 藤田氏の松竹氏への反論は、要点としては2点ある。
・そういう見解をもっているなら、党内で提起すればいいではないか、氏はそうした内部での提起をしていないのは問題である。
・党首公選をしないのは、派閥・分派の発生を防ぐためである。
 中心的には2番目であり、次のように書いている。
 
 「「党首公選制」についていえば、日本共産党の規約が、党員の直接投票によって党首を選出するという方式をとっていないことには理由があります。そうした方式を実施するならば、理の必然として、各候補者が多数派を獲得するための活動を奨励する――派閥・分派をつくることを奨励することになっていくからです。」
 
 そして、ソ連などの干渉によって、分派が発生した50年問題からの教訓で、民主集中制は党首公選とは相いれないのだと説明している。
 しかし、この論理に納得する人は、あまりいないのではないだろうか。50年問題で分派が発生し、それが党に大きなマイナスになったとしても、何故それが党首公選と相いれないことなのか、私には理解できない。分派活動は、ソ連の干渉によって起きたと書いてあるし、共産党は、かつて党首公選を実施したことはないのだから、党首公選を実施すると、分派が発生するというのは、なんの論証もない主張といわざるをえない。
 さらに、「多数派を獲得するための活動を奨励する」ことが、分派をつくることを奨励することになるというのだが、以下の規約で規定されているように、議論を尽くして「多数決で決める」のだから、議論をしているときに、多数を獲得するための活動をすることは、当然のこととされているのではないのだろうか。多数決で決めるのに、多数獲得行為は分派活動だというのは、理解しがたい論理である。
 逆にいえば、誰でも立候補する権利があり、党員全員が投票権をもつと、外部と交流したり、あるいは、決定された党の方針と異なる党員が当選する、それが分派だ。こう理解すると、発生のメカニズムと分派の意味はわかるが、だから、党幹部が制限した選挙が必要なのだ、ということになってしまう。最初から、党執行部が認めた候補者しか立候補できないというのは、民主主義を否定するひとたちがやることである。
 
 ただ、民主集中制ということが、公選を認めてこなかったことは、松竹氏も十分知っているので、その点について、規約に基づいて、規約違反ではないことを、本書全体で説明している。その規約とは、次のようなものだ。
 
 規約3条
党は、党員の自発的な意思によって結ばれた自由な結社であり、民主集中制を組織の原則とする。その基本はつぎのとおりである。
1 党の意思決定は、民主的な議論をつくし、最終的には多数決で決める。
2 決定されたことは、みんなでその実行にあたる。行動の統一は、国民に対する公党としての責任である。
3 すべての指導機関は、選挙によってつくられる。
4 党内に派閥・分派はつくらない。
5 意見がちがうことによって、組織的な排除をおこなってはならない。」
 
 党としての解釈は、私はまったく知らないが、法律や行政を学んだ人間として、常識的にこの規約を解釈してみる。
 民主集中制というのは、民主という要素と集中という要素の双方を含む必要があるという意味だと解釈できる。そして、この3条は、
・民主が1、3、5であり、集中が2と4であろう。
 そして、5項目はいずれも、組織である以上当たり前のことであるといえる。自民党ですら、この5項目は賛成するのではないだろうか。自民党には、派閥があるではないか、という反論がありそうだが、おそらく、3条のいう派閥・分派とは、決定とは異なる考えをもつだけではなく、その考えに基づいて、決定に反する「行動」をとるグループのことであると考えられる。自民党の派閥は、そういう党に反する行動をとるグループとはいえない。実際に、党の決定に反する行為をとれば、自民党であっても、処分されるはずである。たとえば、他党の候補者を公然と応援したりすることなど。
 
 3項、すべての指導機関は選挙による、というのは、どういう意味だろうか。何故、この規定があるにもかかわらず、党首は公選ではないのか、あるいは、すべての指導機関が「公選」ではないことが規定されていることになるのか。
 常識的に考えれば、党員全員が党首選挙に投票権をもつのは、普通選挙のようなものだ。党首選挙に、一部の者しか投票権がないのは、制限選挙であろう。重要な選挙であれば、制限選挙よりは、普通選挙が、より民主主義的であることは、ほとんど議論の余地がないところだろう。制限選挙が必要だというときには、特別な理由がある場合だけだろう。選挙が必要だが、制限選挙であるべきだ、という特別な理由は、私には思いつかないのだが。
 議員内閣制による首相の選出は、国会議員による制限選挙ではないかという意見があるかも知れないが、誰が首相に選ばれるかは、総選挙の結果によって、ほとんど自動的に決まるのだから、衆議院選挙という、選挙権のある国民全員が、首相選挙に関わっているというのが、実態なのであって、決して制限選挙なのではない。(長くなったので、続きは次回。意見具申と表現の自由)

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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