学校教育法には、教師の懲戒権が規定されている。ただ、そのことによって、教師が具体的な仕事を押しつけられているわけではない。懲戒権を発動しない実践は可能であり、その場合、教師の労働が増大することはない。しかし、多かれ少なかれ、教師は法で規定されている懲戒権を行使しながら、授業をしている。そして、そのことによって、付随的な仕事が付加されてくるという仕組みになっている。
こうした状況に対して、私は常々「懲戒権」は、学校の教職員としては校長のみに付与されるべきであり、一般教師にとっては、余計な規定だと思っている。教育は、あくまでも非権力的な営みであって、権力は不要である。もちろん、組織である以上、権力が必要となる場面はあるが、その権力は校長に一元化していること、逆にいえば、校長がしっかりと懲戒権を適切に行使すれば、教師は、懲戒などという教育的ではない要素を、実践のなかに持ち込まなくて済むようになり、より教育らしい実践が可能になるのではないだろうか。
それは、結局、教師の過剰労働を軽減することにもなる。では、より詳しくみていこう。
あらゆる組織は、組織的な秩序を維持するために規則を設け、規則に違反したものを罰する。そうしないと、組織が維持できないからである。このことは、罰は組織の性質によって、その内容や与える方法が規定されることを意味する。国家という組織を維持するためには、法律で規定した「刑罰」を実行するが、それは国家社会の安全と秩序を乱す者を排除することが、当初のやり方であった。その後、追放や死刑という排除が難しくなると、刑務所に閉じ込めることで社会から排除するか、あるいは更生させることで危険性を排除する方法が付加されるようになった。刑罰の目的は国家・社会の安全と秩序の回復にあるから、排除と更生という手段がとられることになる。
会社や役所のような仕事を行う組織では、排除は免職や停職、また重大な違反でなければ訓告や戒告などの懲戒処分がなされる。
懲戒が規定されていることは学校も変わらない。では、学校ではどのような懲戒が行われるのか。学校は教師と生徒という全く異なる立場の人間が存在するので、それぞれの懲戒は異なる内容、異なる原則が適用される。教師は会社や役所と同じように、仕事を行っているので、懲戒の内容は免職・停職・訓告等で同じである。しかし、生徒は教育の対象であり、仕事をしているわけではないので、まったく異なった内容であるが、しかし、法的な規定としては、実はすべてが明確ではない。
ここで、「削除対象」と考えるのは、当然児童・生徒・学生に関する懲戒であり、懲戒全般ではなく、教師による懲戒である。
懲戒の目的は、明示された退学等の目的と、教師が教育活動の中で必要に応じて行う懲戒とは区別して考える必要がある。
まず法の規定をみておこう。学校教育法は、懲戒について以下のように規定している。
〔学生・生徒の懲戒]
第十一条 校長及び教員は、教育上必要があると認めるときは、文部科学大臣の定めるところにより、学生・生徒及び児童に懲戒を加えることができる。ただし、体罰を加えることはできない。
ここでは、懲戒を行うのが「校長と教員」であること、「教育上必要があると認められるとき」に行われることのふたつが定められ、その実行には、監督庁の定める規則に則ることが規定されている。
「文部科学大臣の定めるところにより」として規定されている、学校教育法施行規則は、懲戒について次のように規定している。
懲戒
第二十六条 校長及び教員が児童等に懲戒を加えるに当つては、児童等の心身の発達に応ずる等教育上必要な配慮をしなければならない。
2 懲戒のうち、退学、停学及び訓告の処分は、校長(大学にあつては、学長の委任を受けた学部長を含む。)がこれを行う。
つまり、学校における懲戒の目的は「教育上必要な状況が生じたときに、その必要性を満たすため」と規定されている。そして、懲戒を行うときには、「教育的配慮」が必要であるとされている。このことを総合すれば、学校における教育活動の中で、その教育機能を害する行為をする生徒が現れたとき、害された環境を回復することが目的であり、応報的な刑罰を与えることではない。
更に、校長が行う懲戒は、「退学、停学、訓告」と明確に特定されている。
では、教育環境の回復とはどのようなことだろうか。まずは問題を起こし、教育環境を乱した生徒を排除することが懲戒として想定されている。典型的な排除は「退学」であるが、義務教育段階の公立学校では、「退学」処分はできないことになっている。そして義務教育段階の学校では、私立学校も含めて「停学」処分はできない。したがって、義務教育学校においては、懲戒処分による「排除」は困難であるが、現場の声を反映して、以前はほとんど実施されていなかった「出席停止措置」の要件が2001年度の学校教育関係法の改正で拡大、明確化された。
つまり、ある児童・生徒が、他の人たちの教育を受ける権利を著しく侵害して、事実上授業が通常には行えない状況を作り出しているときには、教師は、当該児童・生徒を校長の手に委ねて、そこから排除するというのが、校長の行う懲戒である。公立義務教育学校では退学は禁止され、また、すべての義務教育段階の学校では、停学が禁止されているので、それに代わる「出席停止」措置が、教育委員会の手によってなされるのだが、その点については、ここでは触れない。
問題は、教師に許可されている懲戒とは何か、あるいはそれは適切なものなのかという点である。
法令は教師の行う懲戒については、「体罰の禁止」以外には何も規定するところがない。そこで、いわゆる「事実上の懲戒」行為が行われることになる。
具体的に考えてみよう。退学・停学・訓告以外の、教師が行う懲戒とは、常識的に、罰として行われる様々な付加的な作業(立たせる、漢字練習、ランニング、正座、掃除当番)のことだろう。そして、そうした作業では不十分だと教師が感じるとき、体罰が行われることが少なくない。また、教育現場では、体罰とそうでない懲戒との区別があいまいであるという不満が生じる要因ともなっている。
「事実上の懲戒行為」を教師が行うときには、ふたつの種類があるように思われる。
第一は、校則で禁止されていることを行った場合である。もし、それが校長の行う懲戒に該当するような事例なら、校長の裁可に委ねることになるだろう。しかし、遅刻や服装違反などは、通常そこまでの措置がとられることは少ないに違いない。こうした行為は、学校では生活指導による是正対象となるのではなかろうか。
第二は、校則違反でもないいわば慣習法的なルール違反である。忘れ物、授業中に騒ぐ、逆に授業中に居眠りする、掃除をさぼる等々。
さて、いつも忘れ物をする子どもが、今日も教科書を忘れたので、昼休みに今習っている漢字を百回ずつ書かせたとしよう。いまどきそういう指導をする教師がいるかどうかはわからないが、以前はよく見られた光景である。漢字百回でなくても、別のことでもよい。要するに「罰」として何かさせることであれば。
このようなことをさせて、その子どもの忘れ物をする習性が改善されるのだろうか。実際に行わせている教師も、これで改善するとは思っていないに違いない。ただ、忘れ物をしたから、罰を与えたという意識ではないだろうか。服装の違反についても、罰することで改善されることはないだろう。
結局、罰は一番安易な対策なのである。そうした違反、ルーズな行為をとにかく罰することで対応したという、自己満足がえられるからである。そして、罰を与えた以上、改善されるかどうかは、二の次である。そもそも刑罰とはそうしたものだ。懲役5年というのは、5年服役して、反省し、すっかりまっとうな人間になったから出所できるわけではない。懲役5年という罰をこなしたから出られるのである。出所後すぐに再犯する者もいる。
しかし、教育上最も重要なことは、忘れ物をしないような資質を形成することであり、その服装ルールが本当に重要であれば、それを守ることが必要なのだと、本心で理解させることだろう。教師がそのための働きかけをするのが、「生活指導」であるが、生活指導と罰の違いは、結果として改善されるかどうかが問われるかどうかである。改善されなければ、その生活指導はまだ不十分であることになり、更に継続的に指導していく必要がある。あるいは、別のことを考えなければならない。
従って、懲戒が必要とまではいえないルール違反は、教師は「懲戒=罰」ではなく、指導という対応をしなければならない。
ここの主題は、「削減する」ことで、教師の負担を減らすことではなかったのか、という疑問がわくかも知れない。短期的には、罰を与えるほうが、簡単に処理できるし、生活指導として対応するのは、改善するとしても長くかかる。だから、大変になると感じるだろう。
しかし、通常は、罰を与えても、もとになる行為が改まることは、滅多にないのである。しかも、罰というのは「慣れ」てしまうことが多く、いつも罰を与えられていると、何も感じなくなってしまい、相変わらずルール違反を繰り返すようになる傾向にある。結局、ずっと対応しなければならない事態が続く。だから、最初から、罰ではなく、何故、この子は忘れ物をしがちなのか、何故、服装を校則と違うようにするのかをしっかり考え、話し合い、対策を一緒に考える姿勢をもつことが必要となる。それは確かに時間がかかることであるが、やがては改善されるに違いない。改善の方法や方向性は、個々人によって異なるだろうが、長期的にみれば、負担は軽減されるだろう。
以上の検討から、 次のように結論づけることができる。
学校教育法における懲戒権は、 校長に限定し、 教師の懲戒権は法的に廃止すべきである。 これまで行われてきた教師による 「事実上の懲戒」行為は、生活指導、つまり教育活動の一環として行われるべきであって、その指導は、あくまでも 「教育的効果」 によって検証される必要がある。多くの懲戒行為は、対象となる行為の改善とは関係が薄く、その目的が達成されることは稀であろう。しかし、それは懲戒であるが故に教育効果は軽視されてきたのである。 教師の懲戒権がなくなれば、教育的効果があると考えられる対応をしなければならない。
体罰の問題もこの同じ原則で考えればよい。
体罰は問題を解決することはない。ただ、一時的におさえることができるだけである。
更に大事なことは、教師に懲戒権があるとしても、使わないことで無化できることである。