ある事情から、五十嵐顕研究をする必要に迫られた。五十嵐顕といっても、最近の若い世代には、ほとんど知られていないと思われるが、私が学生だったときの研究室の教授であった。私自身は、もう一人の教授であった持田栄一教授を指導教官としていたが、五十嵐教授にも指導を受け、院生としては、五十嵐研のひとたちのほうが、ずっと親しかった。
もっとも、指導を受けたといっても、持田教授にしても同様だが、当時はまだ大学紛争の余韻がさめない時期ということもあったのか、両教授は極めて多忙で、連日のように講演に走りまわり、雑誌に原稿を書き、更に研究もしていたから、授業などは、滅多に行なわれなかった。特に大学院の演習などは、院生が勝手に、あるいは自主的に運営しており、たまに教授が参加するという状況だった。最近のように、授業がきちんと行なわれ、指導も丁寧になされる、などということは、むしろ例外的だったのではなかろうか。特に、両教授のように有名人は、社会的活動のほうが中心だったのである。
そして、学生や院生のほうは、教授たちが論文を雑誌に発表したり、著書がでると、検討会を自主的に行なっていた。それが指導の役割を果たしていたかも知れない。だから、少なくとも私の場合には、教授といえども、その理論については批判的に学ぶという対象であった。教授の説だから正しい、などというように思ったことは、一度もなかったと思う。
五十嵐理論研究をするときに、考慮すべき当時の事情は、五十嵐氏の活躍した時代背景・雰囲気である。1977年に東大を定年退官し、1995年に亡くなった。アメリカがベトナム戦争に敗れたのが1975年であり、ソ連が崩壊したのが1991年だから、氏の活躍した時代は、まだ日本でも左翼やリベラルが、少なくとも論壇上では大きな勢いをもっていた時代であった。そして、氏の理論の土台には、マルクスやレーニン、クララ・ツェトキンなどが堅固な位置を占めていた。しかし、今日一般的には、マルクスやレーニンはマイナスのイメージをもっている人が、圧倒的に多くなっている。私自身、歴史のなかに位置づける限り、マルクスやレーニンは、もっとも大きな影響力を発揮し、その理論は、現在でも意味をもっていると考えているが、五十嵐氏が書かれたレーニン教育論を、そのまま共感をもって読む人は、極めて少なくなっていると考えざるをえない。また、現在の教育論として妥当とも思えない。もちろん、そうした「流行」や「勢い」とは距離をおいて、客観的に検討する必要があるが、しかし、時代の変化を考慮しないわけにはいかないだろう。
五十嵐氏には、極めて濃厚な宗教的な倫理観があった。マルクス主義者であった氏が、特定の宗教を信仰していたとは思えないが、氏の生き方の底には、戦争への反省が色濃く滲み出ていた。氏自身が、学徒出陣していたわけだが、戦死した同窓生もたくさんいたわけであり、戦争に対して反対することができなかった自身の悔恨の情が、研究者としての、また市民としての生き方を決めていると感じることが多かった。学徒出陣した人は、特攻隊員として戦死した者も多かったし、そうしたなかに多くの友人がいたに違いない。生き残った者としての十字架を背負っていたのだろう。戦前明確に軍部の戦争を批判し、東大教授を追われても、なお信念を曲げなかった矢内原忠雄への強い敬意にも、それは現れていたと思う。
こうした観点を重視しながら、今後、五十嵐顕研究を少しずつ続けていきたい。