日本の教育が受験制度によって支配されてきたことは、改めて指摘するまでもないが、この受験制度こそが、日本の教育を歪めているだけではなく、日本社会にも大きなマイナス要素をもたらしていることに、改めて注目する必要がある。もちろん、教師の過重労働の大きな原因ともなっている。だから、入試制度を廃止することは、教師の過重労働の改善だけではなく、日本の教育全体、そして社会の改善に役に立つことなのである。
尤も、現在の日本の学校においては、かつての受験地獄と言われた高校入試や大学入試の時代とは異なっている。高校も大学も数値的には全入の時代で、学校を選ばなければ必ず入学できる学校がある。現在でも苛烈な受験勉強が必要なのは、有名私立・国立中学を受験する小学生と、高偏差値の大学を受験する高校生という、一部の者になっている。そして、「浪人」は死語になったとも言われているほどだ。しかし、それにもかかわらず、受験戦争時代の感覚が教育行政や教育界に浸透しており、なんとか競争を維持、拡大しようという政策も相変わらず存在している。従って、入試制度そのものの廃止という主張は、ますます意味をもってきている。というのは、入試制度がある以上、教育の質を変えることは難しいからである。
最初に確認しておきたいことは、日本の入学試験は、日本の学校教育に甚大な影響を及ぼしているが、「進学ということがある以上、上級に進学するために「入学試験」があることは、当たり前のことであり、それは万国共通だ」と、多くの人が思っているが、それは間違いだという点である。上級学校に進学するために、何らかのハードルがあることは、ほとんどの場合当てはまるが、日本のような入学試験は、教育制度が発達した先進国では、実は少数派である。だから、入学試験システムは、廃止することができるはずなのである。
どのような弊害があるのか
では、何故、受験競争的な教育が問題なのだろうか。散々指摘されてきたが、整理しておこう。
第一に、勉強の動機が、勝ち残ることに置かれることである。日本の子どもたちに、何故学校にいくのかに関して調査をすると、必ず、学校は楽しいから、という回答が大多数を占める。何故学校が楽しいのかといえば、友達がいるからなのであって、勉強が楽しいと答える子どもは、ごく少数しかいない。これは、ずっと変わらない傾向である。では、なぜ、勉強が楽しくないか。それは、勝つための勉強になっているからで、勝負においては、常に勝者は少数であって、敗者が多数なのだから、多数が、勉強を楽しくないと感じるのは、当たり前のことなのだ。本来楽しいはずの学習が、競争のために強いられることによって、楽しさをえられないことになっている。そして、勉強嫌いが大量に生産されている。
第二に、試験のための勉強は、与えられた課題に対して、決まった正解答を求めるための訓練となる。しかし、社会のなかに存在する問題・課題には、決まった正解答なども存在しないことが多い。そして、複数の解答(=とりうる可能性)から選択して、実践しつつ、妥当性を検証していくというのが、通常の取り組みの姿である。そうした学習スタイルを許容している部分も、皆無ではないが、あったとしてもごく少数だろう。好意的にみれば、ゆとり教育は、そうした課題設定型の学習を保障することが可能なものだったが、残念ながら、学生たちの経験をきくと、本来の趣旨とは異なる、受験勉強補助に使われていたことが多いようだ。そして、ゆとり教育の終焉とともに、その可能性も失われつつある。
第三に、現場に過大で、無意味な労働を課していることである。
受験体制そのものではないが、その一環をなしている「学力テスト」は、多くの自治体で、三つのレベルで実施されている。文科省が行なう全国学力テスト、そして、都道府県教育委員会のテスト、そして、市町村が行なうテストである。もちろん、すべての都道府県や市町村が実施しているわけではないが、大きな自治体では行なわれているようだ。しかも、単に当日試験を実施するだけではなく、成績をあげるために、過去問等を使って、事前の練習を行なっている。一週間もそれに費やす学校もある。成績をよくするという圧力がかかることのストレスだけではなく、一週間テスト練習をすれば、その時間に行なう正規の授業が潰されるわけだから、他の時間帯にしわ寄せが及ぶことになる。それは、端的に教師の過重労働となるのである。
社会の側からみてみよう。
これまで日本の企業は、卒業生を一括採用して、4月から新入社員として迎え入れる採用方式をとってきた。欧米に多い、個別の業務・職務に空きが生じたときに、その部分を補充する採用方式と異なって、大企業などは、数千、数万の応募者から数百人、数千人を選び出す作業が必要で、学歴、つまり、大卒か高卒か、あるいは大学でもどの大学を卒業するのか、という学校の基準を大きな採用要素のひとつとしてきた。そして、それは実際の能力・資質というよりは、可能性に依拠することになる。個人を丁寧にみて、自社に必要な人材かどうかを見きわめるというよりは、卒業した、正確には入学した大学に、潜在的な能力を判断する材料があるという前提で、採否が判断されることである。しかし、特に最近の大学は、多様な方式で学生を募集しており、そのために学生の質も、大学名で判断できる状態ではない。
企業側も、もちろん大学名だけで選んでいるわけではないが、大学名がそれなりの位置を占めていることは、間違いないだろう。これは、企業側の人を見る能力と、大学自身の学生を育てる能力を、あまり必要としない影響をもつのである。日本の大学は、一端入れば、だいたい卒業できることを考えれば、そのことは疑いない。
こうした人材選抜の感覚が、次第に実力とは異なる要素で判断していくという、ある種の腐敗を社会にもたらしているのである。