京都の平安女学院で騒動が起きているという記事がいくつかあった。ひとつは、訴訟が起きていることを報じている。「理事長批判で解任「パワハラ放置は学校滅びる」 平安女学院中学・高校の教員4人提訴」(京都新聞1.19)
平安女学院関連の訴訟というと、10数年前におきた滋賀県守山キャンパス撤退問題での訴訟をかなり調べたことがあるので、またか、という感じであった。理事長が同じ人なので、繋がっているともいえる。
守山キャンパス問題とは、2000年に、平安女学院大学が、滋賀県守山キャンパスを開校、しかし、思ったように学生が集まらず、2005年に守山を撤退、高槻キャンパスに統合、在籍していた学生も移すという、少々乱暴な移転計画だったために、守山キャンパスで学ぶことができるという条件で入学したのだから、卒業するまで維持してほしいという要求の訴訟だった。しかし、学生側が敗訴している。(提訴したのは一人だけ)
そして、今回の問題は、2022年3月に行なわれた高校での卒業式で、山岡理事長がおこなった式辞が、建学の精神に反するだけでなく、差別的であると感じた教職員が、質問状を発しようとしたら、逆に校長が自宅謹慎、副校長らが解雇され、それは後に撤回されたが、質問状に答えることなく推移したので、提訴されたということのようだ。
2005年と2022年の事態が繋がっていると思われるのは、守山キャンパスが計画通りに学生募集ができなかったためもあり、学園の赤字が膨大なものになってしまったとき、経営再建のために、理事長に要請されたのが、現山岡景一郎氏であり、経営者であった山岡氏が、かなり大胆な経費圧縮を行い、黒字経営に転換、その後学長等、経営と教学の両方のトップを長く続けることになって、現在にいたっているわけである
赤字解消のために、守山キャンパスの撤退があったわけだが、他にも給与カット、教職員のリストラなど、通常では考えられないほどの荒療治をやっている。
山岡氏自身が語っている記事によれば、山岡氏のやり方は、「衆議独裁」というもので、どんどん意見を聴くが、最期は自分が決めるという。インタビューでは、誰もが気軽に意見を自分にいうと、職場の雰囲気が自由であることを誇っている。
しかし、今回の訴訟に至る記事を読むと、意見を封じ、説明もしないという姿勢であることが、教職員によって語られている。年齢も現在92歳であり、様々な肩書をもっていて、平安女学院専任でもない。(経過は、文春オンラインに詳しい。https://bunshun.jp/articles/-/47321)
山岡氏の理事長就任後の動静をみると、「権力は腐敗する」という言葉を実感させるような進展を見せている。迎え入れられたときは、それなりに配慮もするだろうが、確かに他にはできないような大胆なやり方で、赤字解消をした。そして、その手法を維持してきたのだろう。だが、本当に謙虚な人であれば、荒療治によっておきた負の影響を払拭するためにも注力したろう。しかし、むしろ、理事長という経営の責任者だけではなく、大学の学長という教学の責任者にもなり、赤字解消のための理事数削減も影響して、次第に「衆議独裁」から、単なる「独裁」に変質していった感じが否めないのである。理事長になってから既に20年経過している。20年の経営独裁者としてゴーン、政治家はプーチン、ルカシェンコなど、やはり、長すぎるトップは、問題を抱えやすい。
理事長の卒業式式辞は、腐敗してしまった独裁者の一面が出てしまったというべきだろう。問題となった式辞は次のようなものだった。
《小さくても、エルメスやヴィトンとか、そういうようなブランドというのは、小さくてもピカッと光っています。私どもの学生たちは、今はそういうブランド大学だという誇りを持っております》
《世の中には5種類の人間がいますね。1人は世の中にどうしてもあってほしい人。2番目は、どちらかというとまあ、いてほしい人。3番目は、世の中にいてもいいひんでもいい人。4番目は、世の中におったらあまりよくない人。5番目は、世の中におったら害になる人。さて、どれが1番いいでしょう? それは1番目の世の中に必要な人だと私は思っています》(上記文春オンラインより)
平安女学院は、キリスト教精神による学校であり、教員もキリスト教徒である者が多いそうだ。この表現に反発を覚えるのも自然だろう。キリスト教理念でなくとも、かなり問題発言である。私は、この発言のなかに、独裁的権力を行使している人物の、精神の弛緩を感じてしまうのである。教職員の質問は無視していたが、SNSでの批判が広がったために、譲歩したというのは、いかにも経営者らしい対応だった。
大きな学園では、やはり、経営と教学は異なる論理や意識で動くので、同一人物がトップを兼ねるのは、避けるべきものだろう。
教育はお金がかかるものだが、お金を生む力は弱い。とくに、日本のように設置基準で、様々な制約がつけられているなかでは、経費は膨らむが、収入は増えないのが通常である。よりよい教育をしたいと思えば、どうしても費用がどんどん必要になる。しかし、経営の論理は、収入と支出のバランスをとることは絶対条件である。だから、経営と教学は、対立する論理で動いている。
通常は、それぞれ別のトップをおき、双方の十分な意見交換によって、バランスをとっている。もちろん、双方を十分考慮しながら、適切なバランスをとれる人物がいれば、トップを兼ねることも否定できないだろうが、そういう人物は滅多にいないのではないだろうか。
年齢も考慮すれば、山岡理事長が辞任することが必要だと思われる。