ベトナムはどうか。
1 戦後の全国的社会主義経済建設1975から1986年
戦後の経済の混乱、1978年のカンボジア侵攻後の経済制裁
生理的欲求すら満たされない状況
2 市場経済への以降準備から開始 1985~1990
当初は市場経済がうまく機能せず。
生理的欲求と安全欲求のあいだで一進一退
3 社会主義志向型市場経済の実施1987から2000
市場経済が次第に機能。国民総生産も増大。国際社会への復帰。
安全欲求が満たされるように。次第に愛と所属欲求も。
4 グローバリゼーションと外圧による改革2000~
海外投資の活発化。
承認欲求てき環境整備。愛と所属欲求が充分かどうか疑問。(外資系企業の増加)
5 あらたな社会的傾向
高齢化社会、受験競争、技術革新
ベトナム戦争が終了したあと、ベトナムを応援していた勢力にとって、喜ばしい状況が出現したが、実はそれに逆行するような事態がいくつも生じたのである。もちろん、それは反ベトナム勢力の宣伝という要素もあったかも知れないが、事実として、新たなベトナムへの疑問をもたざるをえないようなことも起きた。
最初は、南ベトナムは、アメリカ撤退後も自立的な国家として認めると北は表明していたのに、かなり早期に北ベトナムに吸収されたようにみえた。統一ということなのだろうが、南ベトナム解放戦線が解散され、統一というよりは北による吸収のように、私にも写った。そしてそれに不満をもつ人びとが、大量に南ベトナムを逃れ、いわゆるボート・ピープルとなった。彼らの口から、「解放後」の惨状が語られて広まったわけである。このとき日本は難民として受け入れた。
更に追い打ちをかけたのが、カンボジア侵攻であった。これは賛否両論あった。カンボジアは、ポルポト政権が残虐な政治を行っており、大量の粛清が実施されるなど、まったく人権などが認められず、外に救いを求めるひとたちが多かった。ベトナム戦争中、いわゆるホーチミンルートというのは、カンボジアを通る道筋もあり、ベトナム側はカンボジアの情勢を知り抜いていた。そこで、ポルポト政権を倒す必要を確認したのであって、それを支持する勢力が、内外にも多かった。しかし、突然のベトナム軍がカンボジアに侵攻したことは、ショックを与えたことも事実だった。
こうした事態が落ち付くまでは、統一ベトナムは苦難の時代だったといえる。あれだけベトナムの国土を荒廃させ、多くの死傷者をだしたアメリカは、ベトナムに対してなんら援助のようなことはしないまま、かなりの年数が経過していた。これが1の生理的欲求すら満たされない状況だったというのは、その通りだったろう。
10年ほどたって、中国でも市場経済をとりいれる変化がおきており、ベトナムでも「ドイモイ」政策という市場原理をとりいれる政策が実行された。それが次第に効果をあげ、国際社会にも認められるようになって、ベトナムが国際市場の重要な地域となっていくわけである。日本にも労働力として多くのひとたちがやってきて、働いているのは現在でも継続している。
私は、ドイモイ政策が採用されて以降は、中国と違って、国際社会との軋轢が目立つようなことがなかったのは、ホーチミン死後、一貫して集団指導体制を維持し、一人の独裁的権力を生まなかったことも影響していると思っている。幸田氏の整理をみると、ベトナムは、日本の1980年代にあたるように思われる。幸田氏は次のようにベトナムをまとめている。
「日本ではバブル崩壊で、自己実現欲求は実現せず、承認欲求の基礎を失い、リストラ等で愛と所属欲求も失いつつある。ベトナムでは、承認欲求が満たされつつあるが、外資増加で、愛と所属欲求の確保が課題となっている。」
幸田氏によると、日本は、バブル崩壊後は、自己実現欲求はおろか、承認欲求まで失ったとされるが、たしかに30年間経済成長は停滞した。しかし、私自身が比較的安定した職場にいた、そして、本当に大学が全体として危機的状況になる前に退職したという境遇で感じているだけかも知れないが、停滞といっても崩壊したわけではなく、人口が減少しつつあるなかでの低成長だから、一人一人にとっては、少しずつ成長していたともいえるのである。私の世代は、とにかく厖大な同世代人口があり、常に激しい競争にさらされていたから、それこそゆとりをもって自己実現について考える余裕などはなかったのにたいして、少子化が進んだ現在の青年たちは、選択幅が広いともいえるのである。それこそ自己実現には重要な要素であり、自己実現を保障するものは、決して高い経済成長だけではないことも忘れるべきではない。
最後に、非常に刺激的な論文を提供してくれた幸田達郎氏に感謝をしたい。