いろいろな意味で話題になっていた秋篠宮の誕生日会見が放映され、また宮内庁のホームページに文字化されたものが掲載されている。両方目を通したが、この方が将来天皇になるのかと思うと、正直暗澹たる思いになる。同様の感想をもった人は少なくないに違いない。いくら皇族といっても、記者会見の体をなしていない印象だ。質問は予め提出されていて、しかもかなりの準備期間があったはずである。記者は予め提出した質問の文章を最初に読み、それに対して秋篠宮が回答するのだが、ひとつの質問にはだいたい3つ程度の小さな質問が含まれている。準備してきた回答を述べるのだから、メモを見る程度は当然として、小さな質問をその都度確認して回答している。それが最後まで続いた。特段細かな質問ではなく、ごく大雑把な質問内容だ。それを一々再度質問を確認して、回答するというのは、真剣に質問を受とめているのかという疑問が起きた。
サンデーモーニングの張本降板
人気コーナーでもあり、また批判も多かった関口宏司会のサンデーモーニング(TBS日曜番組)のスポーツコーナーコメンテーターの張本氏が今年一杯で降板するという本人からの説明があった。私自身その場面をみていたので、少々驚いたが、最近のネットでの批判と、張本自身の年齢を考慮すれば、来るべきものが来たという感じでもあった。ネットでは、既にたくさんの見解が書き込まれているが、ほとんどはサンデーモーニング自体への批判のほうが強く、張本氏については分かれている感じだ。私自身は、この番組は、前半は別の番組(というか、朝なので見るときはということで)をみているので、だいたいスポーツコーナーあたりからみて、「風をよむ」の後半あたりからはみるのをやめてしまう。
そんなことで人を殺してしまうのか、で済むだろうか?
ほとんど理解不可能な殺人事件が立て続けにおきた。ほとんどの人は、そんなことで人を殺してしまうのかという疑問にとらわれたに違いない。
中学生がとなりのクラス(小さな町なので、小学生時代からの友人だった)の友人を呼び出して、廊下で持参した包丁で刺し殺した事件。そして、妹夫婦の家族と同居していた男が、妹をその夫が迎えにでかけたあと、二階に子どもが二人寝ているのを知りながら放火して全焼させ、子どもを死なせた事件。
ふたつの事件とも、おそらく小さな、継続的なトラブルはあったのだろうが、大きな喧嘩などもなく、突然の犯行のように思われた。まだ真相は明らかになっていないし、今後明らかになるかどうかもわからないが、特に学校の教師にとっては、大きなショックだったに違いない。
ノーベル賞受賞者が地方出身に多いこと
日本人のノーベル賞受賞者は、地方出身者が多いことは、これまでしばしば話題になってきた。そして、今日この記事に気づいたので、考えてみることにした。日経の「ノーベル賞受賞者、都内高卒は1人、開成、筑駒はゼロ」という記事だ。筑駒は、私の母校であるので、思わず笑ってしまった。
確かに、地方公立高校出身者がほとんどである。都内は日比谷高校卒の利根川博士のみだそうだ。私なりに考えると、理由がいくつか考えられる。
まずノーベル賞というのは、自然科学が柱だ。自然科学者として業績をあげてノーベル賞を獲得するわけだが、ノーベル賞級の研究をするのは、まずは基礎研究が主で、それまでなかった発想で新しい発見をすることがもとめられる。そのためには、やはり、小さいころから自然に接して、自然の不可思議さに日々感応するようななかで育つことが有利なのではないかと思うのだ。私は自然科学者ではないので、想像するしかないのだが。
プロが仕事中に泣いてしまうこと
最近「朝イチ」はまったくみないので、実際にその場面を見たわけではないのだが、朝ドラの話を最初にする場面で、鈴木アナウンサーが、「カムカムエヴリバディ」の場面を語るときに、あまりにドラマに感情移入して泣いてしまい、話ができなくなってしまって、周囲のスタッフが懸命にフォローしたという記事があった。そして、プロは泣いてはいけいないのかというような提起がなされていた。
広告と言論
朝日新聞の記者が、書きたい記事を広告主に忖度した上司と折り合いがつかず、自ら命を絶ったという事件があった。なんとも痛ましいことだが、たくさんのことを考えさせる事件だ。
現時点では、週刊文春11月11日号に報道されているくらいで、肝心の新聞社系は沈黙しているようだ。したがって、現在では詳細はわからないが、文春によれば、パナソニックの早期退職希望者に関連して、他の新聞は、前向きな記事を書いたのに、朝日の件の記者だけが、パナソニックの意図に反して、優秀な社員も応募して会社側も困惑したことを載せ、上司が、積極的なことも書けというので、意に沿わない記事を書いて悩んでいた、その気持ちがツイッターに書かれていたというような内容だった。記者の死亡後の朝日の人事の不可解さもあわせて報道している。
国民の教育権論の再建6 教育権の基本的要素2 教育を受ける権利
憲法に明記されている「教育を受ける権利」について考察しよう。
憲法に規定されているのだから、この権利については、法的に存在していることは疑いない。条文を確認しておこう。
第二十六条 すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する。
② すべて国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ。義務教育は、これを無償とする。
法的には、国民は教育を受ける権利はあるが、それは「能力に応じて、ひとしく」という限定かついている。子どもの教育を受ける権利については、保護者が法律の定めに従って、保護する子女に教育を受けさせることによって充足される。全体として国家がそれらを保障する義務がある。
小室夫妻の結婚と保守論壇
「文藝春秋」12月号に、「秋篠宮家秘録 この三年間に何が起きていたか」(特別取材班)と「象徴天皇制の聖と俗」(保阪正康)という文章が掲載されている。さすがに日刊ゲンダイのような駄文と違って、問題に切り込もうという姿勢が感じられる。両方ともネットでも読めるが、前者は一部省略があり、省かれた部分は悠仁親王の通学したお茶の水女子大付属関連であり、興味深い内容だった。
ネットで読めるので、内容はそちらでチェックしてもらうとして、疑問な点を中心に書いておきたい。
まず「秘録」のほうだ。
ここでは真子内親王が非常に大人で、一端決意したことは断固としてやり抜く強い意志をもっており、籠の中の鳥状態である皇室から抜け出すために、10年も前から佳子内親王と相談しながら、計画をしていたという話が出てくる。近くで接していると「通常よりも10歳くらい精神年齢が上」と感じるのかも知れないが、結婚後の記者会見で見せた状態からは、多くの人が、年齢の割に幼いと感じたのではないだろうか。私もそう感じたし、またネットの書き込みでそういう感想が非常に多かった。意志の強さは確かにそうなのだろうが、より客観的にみれば、意志の強さというよりは、独善的で幼稚な思考の印象が強い。
ウィーン・フィルの魅力?(続き)
11月9日に、youtubeのウィーンフィルの魅力解説に関連して、ウィーンフィルについて書いたが、どうも書き足りない感があるので、補足しておきたい。
もっとも好きなオーケストラのアンケートをとると、ほとんどの場合、日本では、ウィーンフィルが一位か二位になる。何故かは、私にもよくわからないが、おそらく、年配の音楽ファンにとって、オーケストラ曲の多くはウィーンフィルの録音だったし、特に早くからステレオ録音の力をいれ、独特のサウンドの魅力をウィーンフィルから引き出したデッカの功績が大きいのかも知れない。ウィーンのゾフィエンザールでデッカが録音したウィーンフィルの音が、本当にあのように響くのかは、長年疑問に思っているのだが、確認する術もないので、ああいう音がすればいいなという憧れを生じさせたことは間違いない。とにかく、弦が艶やかに響き、管楽器と弦楽器の融合が素敵なのだ。サトリーホールやNHKホール、東京文化会館で聴いたウィーンフィルの音は、あのようなものではなかったのだが。やはり、人生で一度はウィーン楽友協会ホールでウィーンフィルを聴いてみたいものだ。
国民の教育権論の再建5 学校設立の自由
日本の法体系では「私立学校設立の自由」が認められており、それによって、学校を作って独自の教育をしたい者は、そのことが可能になっている。形式的にはそうである。しかし、実質的には自由ではない。私立学校を設立するためには、多くの認可事項をクリアしなければならないし、設置者負担主義原則があるから、学校の設立・維持にかかる費用をすべて負担しなければならない。かつて、不登校になった子どもたちのための学校を設立しようと運動したひとたちがいた。そして、寄付を募り、私のところにも依頼状が来たが、過疎地域の土地代の安いところにつくる計画でも、なかなか資金は集まらなかった。何十億もかかる。まして、市街地に学校をつくろうと思ったら、よほど大きな組織でない限り、不可能である。こうした現状は、形式的権利はあるが、実質的権利はないに等しいというべきなのである。そして、国民の教育権論の立場からすると、公立学校が主戦場だから、私立学校設立の実質的な自由などは、ほとんど議論されていない。
さて、独自の理念に基づく学校をつくることが、容易に行われることがよいのか、あるいは日本のように、かなり高い基準を満たさなければならないほうがいいのか、それは人によって考えかたが違う。日本のような厳しい認可主義であれば、存在する私立学校の水準は保障されている。