持田は、公教育は国家が共同化した制度だから、そこに加われば、当然体制内化してしまうという状況認識を前提にして、親の復権のためには「参加」が必要であるという。しかし、参加すれば「体制内化」するのだから、持田のいう復権にはならないはずであるという矛盾を含んでいることだった。
持田によれば、国民の教育権論のようなPTA民主化論では、変わらないし、また、話し合うだけでは済まない。そういうことで変わるというのは幻想共同体である。他方、PTAの無用論や解体論の立場には立たないと明言している。解体しても、何も生まれないからだ。(p106)
存在している制度に組み込まれれば、体制内化してしまうので、それは誤りであるという議論は、当時さかんになされた。しかし、本当に誤りであり、体制内化しないためには、その制度に組み込まれないこと以外にはない。国家が設置した学校に通わず、フリースクールやホームスクールをする以外にはないだろう。PTAへの参加も同様だ。PTAは任意参加だから、加入しないことは十分に可能であるが、持田は、そういう無用論や解体論には与しないという。そこからは何も生まれないという。
結局、最終的には、国民の教育権論におけるPTA民主化論と、持田の体制内化する問題を自覚して、参加するという議論は、ほとんど同一のものだと思われる。そして、結局、親の復権という立場においても、持田も国民の教育権論を正確に批判することはできず、同じ土俵にとどまったといわざるをえない。
もう少し具体的にみていこう。
体制内化しない親の参加論とはどういうことか。
文部省的なPTA利用論は批判することはもちろんである。今村武俊のPTAの自主性は尊重するが、結局は、学校協力団体として、学校の教師たちの雑務を代わりにやってもらうという主張は退ける。PTAは、多くが、戦後ずっと一貫して、学校協力団体として財政補助や人員補助を行ってきた。更に、当時日教組がさかんに主張していた、教師は本務に集中し、雑務から解放されるべきであるという主張に対して、文部省の今村は、その雑務はPTAにやってもらったらどうかという提案をしていたわけだ。そうした論理は、持田は退けるのは当然であろう。
では、持田の積極的な提言は何か。4点にまとめている。
1 親・教師の現存を問い返し、両者が自己変革をとげていくことがPTA活動の基本にされる
2 今ある教育の現実を変革していく実践と運動とかかわってすすめられるべき
3親や教師は共同して子どもの教育にあたるためにも国家や地方自治体の行政に介入参与して、それが親や教師の直接的コントロールのもとにすすめられるように努力すべきである。
4 PTAが小回りのきかない多面体の組織であることを十分認識した上で活動をすすめていくことが必要である。
親がPTAに参加して、PTAを公教育運営に直接反映させるための機構に育てていくということだ。しかも、単に参加するのではなく、3で確認しているように、コントロールできる権限をもつということが必要であるとする。これは、ヨーロッパ諸国で多くみられる親の学校運営に参加する形態と同じである。持田がこの提起をした時期には、ヨーロッパでも権限をもった親の参加は、広く普及していたわけではないので、画期的な構想だといえる。
ただ、この議論が、PTAの民主化論と決定的に異なるとはいえない。民主化論である以上、代表の選出を民主的にすること、代表としての適切な権限をもって参加することを、論理的には含意するからである。
従って、この限りでは、国民の教育権論への批判の立場からの提起にはなっていないように思われる。
では、公教育組織に関する国民の教育権論と持田の違いである、私事性について検討しよう。持田は、現代の公教育は国家によって共同化されたものであり、私事性の組織されたものだというのは、歴史的事実に合わないと批判している。しかし、これは、想定している歴史が違うことによる認識の違いと考える。
持田は、ドイツを中心に公教育制度を常に考えていた。ドイツは、フリードリッヒ大王が深く義務教育制度に関与したといわれるように、確かに、国家によって組織された側面が強い。ドイツの大学は公立であり、エリート中等学校のギムナジウムも公立学校である。ワイマール共和国において、親の要求で宗派学校を設立する義務を自治体に課したが、ナチスは、私立学校も含めて、「国民学校」再編した。従って、確かに、私事性の組織化としての公教育という側面は極めて弱い。また、日本も明治に国家制度として学校を設置していくとき、寺子屋や藩校を潰して、小学校や中学校を設置していった。
しかし、イギリスやアメリカは、私的に設置された学校がそのまま存続し、それを補うような形で公立学校が設置されていく。大学も含めてエリート校といわれる学校は、多くが私立である。だから、私事性の組織化という側面は、アメリカ、イギリス、そしてオランダのような国では確かに無視できない事実なのである。
国民の教育権論の私事性論の誤りは、私事性の共同化などは事実ではないということではなく、現在の時点で、私事性の共同化を担保する「委託」の位置づけを欠いていたことにあるのである。委託論の最も常識的な形態は、学校選択の権利を実施することであるが、学校選択論について、まったく触れていないという点で、持田も大きな弱点から免れていなかったといえる。もっとも、持田は臨教審の審議が始まる前に亡くなってしまったので、自由化論とは相まみえることはなかった。持田ゼミの一員だった私としては、ぜひ自由化論や学校選択論についての論を聞きたかったと思っている。