読書ノート『象徴の設計』松本清張

 今、日本の歴史で気になっているのは、幕末の尊皇攘夷思想が、なぜ、あれほど実力行使をするほどの外国排斥の思想になったかということ、そこから、どのように中国・朝鮮に対する差別意識が形成されたか、そして、明治にどのようにして天皇制が形成されたのかということだ。前のふたつは、現在、特に中国や韓国に対するヘイト的行動となって継続していること、3つめは、小室問題ですっかり国民の信頼が揺らいだ皇室の今後を考える点で、欠かせない歴史的な視点である。
 松本清張の『象徴の設計』は、軍人勅諭をつくるに至る山形有朋を中心とする政治の裏側を描いた作品で、清張の歴史物のひとつである。表面的な歴史学習では、明治15年に明治天皇が発布した軍人のための文書であるという程度しか教わらないが、実際にこの文書を作成した山形有朋が、なぜ、どういう問題意識でつくったのか、手にとるように理解できる。考えてみると、明治政府にとって、本当に切実な問題であるが、実は、現在の日本でも、似たような課題があるのだ。

 
 江戸時代は、軍事力は武士が握っており、武士は直接の主人に使えていた。将軍に直接使える軍事力としては、旗本、御家人たちがいたし、大名にはそれぞれ家臣たちがいた。そして、そうした武士は、直接の主人にのみ忠誠を近い、その主人のために命を投げ出して闘うように、教育されたのである。平和が長く続いた江戸時代の末期には、そうした武士の精神はかなり剥落していたが、忠誠心の対象が、直接の主人である将軍や大名であったことは、崩れていなかった。
 しかし、明治政府は徳川将軍家を政治の舞台から追いやり、大名を領主の座から引きずり降ろした。そして、四民平等の下で、武士という身分そのものが消滅し、徴兵令を敷いて、農民から兵士を補充したわけである。それに不満な武士たちが、何人も明治政府に反乱を起こし、維新の大功労者である西郷隆盛が、最後に西南戦争を起こして滅亡した。そして、武士の反乱は起きなくなったが、自由民権運動が起こり、また、各地で税に反対して暴動も起きていた。
 こういうなかで、徴兵制によって集められた兵士たちで「軍隊」がつくられていったが、その兵隊たちは、誰に対して忠誠を尽くして闘うのか。明治政府は、そういう兵隊たちの闘いを、確実に実行できるのか。もちろん、人間の性として、意味を感じない対象のために命を捧げて闘うことなどしない。軍隊を築く立場にあった山形が、悩み、なんとか解決する必要があると感じていたことが、この農民の兵士たちの「忠誠」の確保だった。世界の情勢を調べれば、軍隊が謀叛を起こして、政府に刃向かうことなどは、いくらでもあることがわかる。実際に、士族たちの反乱が続き、農民の暴動も起きている。自由民権運動には、政府に不満な士族たちがたくさん参加している。山形にとっては、それは維新政府の存続そのものを脅かす可能性のある問題だった。正確にいえは、維新政府にとって重大問題だったが、それを最も深刻に受けとめたのが、山形だった。
 
 考えてみれば、現在の自衛隊にも、同様の課題があるのかも知れない。形式的には憲法に違反するという学者の説が多数であり、憲法的には「戦力」ではないとされている。実際に、設置されてから70年以上、ただの一度も戦争をしたことがないし、治安出動すらしたことがない。自衛隊の活動は、演習と災害救助が主な仕事だ。ごくわずかに、海外の平和維持活動に参加しているが、それも、明確な軍事行動をしてはいない。
 つまり、形式は軍隊であるが、実質的な活動は軍隊ではなく、平和的な活動であり、従って、おそらく、自衛隊を通常の就職先として選択して入っている隊員も少なくないだろう。おそらく、自衛隊員は、日常的には、誰のために、何のために、命を捧げるのか、などという問いを、真剣に考えこむことはないに違いない。
 しかし、集団的自衛権なるものが発動されて、日本が他国の戦争に巻き込まれ、自衛隊が実際に戦争に参加することになり、命の危険性が高まったとき、自衛隊員の感覚も大きく変わる可能性がある。そのとき、自衛隊員が、どのような行動をとるか、本当のところは、わからないのではないだろうか。
 
 山形が、当初考えたのは、「国家」ということだったが、それでは弱い。国家に忠誠を尽くすといっても、実際に、目の前にいる藩主への感覚のように現実的な感覚がない。そこで、天皇ということになる。しかし、天皇は、ほとんどの国民にとって、存在感のないひとにすぎなかった。
 
 山形は、いくつかの手をうつことによって、軍人の、天皇に対する忠誠心を涵養するための文書(軍人勅諭)と、教育を考えていくことになる。
 まず、天皇そのものの立脚点である。経済的に自立する必要がある。
 天皇が、まだ軍隊を動かしていた時代は、天皇は広大な領地をもっていた。平安時代までは、公地公民というシステムが、完全に崩れたわけではなく、そうした経済的盤をもって、軍隊をもつことができたのである。しかし、軍事的な存在ではなくなった時代には、天皇自身の領地は縮小された。従って、徳川幕府が倒れた時点で、皇室領は極めてわずかであったから、経済的基盤の弱い天皇という存在では、軍隊に絶対的に君臨するには弱いと、山形は考えたのである。それは、皇室領に多くの元徳川領の山林等を組み込むことによって実現した。(今山形が生きていたら、小室圭-真子結婚騒動をみて、皇室が税金によって成立しているシステムにこそ、問題を拡大してしまった要因があると考えたかも知れない。)
 次に、実際に天皇を軍隊のトップにすえることである。その後の軍国主義的大日本帝国を知る立場からは、不思議であるかも知れないが、明治維新を実行した下級武士たちは、天皇のために維新をしたわけではない。あくまでも天皇は、手段であり、彼らにとって道具であった。だから、政権を担ったひとたちにとって、自分たちの政治の権威づけとして利用すればよいのであって、軍隊のトップなどという位置は、逆にいえば危険でもあった。山形は、自らの軍隊における地位を高めつつ、天皇に統帥権を与えるという、離れ業を実現し、形の上では、「天皇の軍隊」に仕立て上げたのである。
 しかし、形を整えても、そこに属する軍人や兵隊たちが、天皇に忠誠を感じ、尽くすためには、形だけでは不十分である。兵士たちに有効に訴える言葉を散りばめて文書と、日常的に教育をすることによって、天皇への忠誠心を涵養することができると考えたわけである。
 武士が直接の生身の主君のために命を投げ出すように、天皇という生身の人間が必要であった。しかし、国民全体、軍人全体が絶対的忠誠を誓うことを可能にするために、現人神という神格化が必要であった。
 こうした「象徴」の創造のために、山形は、そのひとつとして、軍人勅諭を作成するのだが、その作成には、かなりの年月と多数の人を動員した。西周、井上毅、福地源一郎など中心となったが、何度も何度も文を練り直して作り上げていった過程が、詳しく語られている。当時の代表的な知識人である彼らが、自分の書いた文章を、他の人が徹底的に直し、更に逆に今度は訂正された文章を直していく。そういう作業を何年も続けて完成させたものだが、そういう、ある面誇りを傷つけられる作業でもあることを積極的に最後まで実行したことは、驚くべきことだ。山形の指導力と、彼らが、国家を作っているのだ、という実感が、その困難な作業を完遂させたに違いない。
 
 秋篠宮家に皇統が移るなら、皇室は廃止すべきだという意見が、かなり広まっている。何となく、推移すれば、規定路線として秋篠宮に皇統が移ることになるだろう。それを改革して、長子継承に変える、あるいは、天皇制を廃止して共和制にするという方向は、山形が注いだようなエネルギーを必要とするだろう。
 

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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