またまたフルトヴェングラーのバイロイトネタで、我ながらしつこいと思うのだが、最近、この問題は、情報の信頼性、情報と事実の関連の吟味という点で、非常にいい材料だと気づいたのである。そこで、更に拘ってみた。つまりメディアリテラシーのチェックということになる。
前回の最後に触れたが、もしEMI盤が本番ではなく、ゲネプロであるとしたら、フルトヴェングラーの追悼盤としてバイロイトライブ演奏をレコードにするにあたって、なぜ、本番ではなく、ゲネプロを採用するのかという疑問は、強く残る。両方の録音をもっていて、わざわざ本番を採用しないとしたら、かなりの理由があるはずである。ルツェルンの第九を追悼盤にしなかったのは、EMIの担当責任者であるレッグの夫人であるシュワルツコップが反対したからであるということになっている。それを信じるしかないから、その前提で考えると、やはり、シュワルツコップが本番の採用に反対したという理由が、まず思い浮かぶ。それで、再度、EMI盤とバイエルン盤の両方をかなり注意して聴き比べてみた。ただし、シュワルツコップのチェックが目的なので4楽章のみ。
結果は、シュワルツコップについては、どちらも優劣は感じなかった。独唱は、多少EMI盤のほうがよく、特にアルトのヘンゲンがそうだった。しかし、バイエルン盤に弱い部分があるという感じではなかった。
しかし、ひとつ重大なことがわかった。これまで指摘されていたとは思うが、バイエルン盤には、あきらかな録音・再生上の操作があるということだ。フルトヴェングラーの第九の特徴として、4楽章の前奏的部分が終わって、歓喜のメロディーがチェロとコントラバスで奏されるところで、極端に音を落とすことがある。今回ヘッドフォンで聴いたのだが、あまり大きな音にしなかったためもあって、EMI盤では、途中クレッシェンドするところ以外は、ほとんど聞こえなかった。バイリオンが入ってくるとわかるという感じだった。しかし、ほぼ同じ音量で聴いていたバイエルン盤では、この歓喜のメロディーの部分になったところで、音質が変化して、明らかに録音再生レベルを人為的にあげているのである。それは切れ目が聞こえたこと、音量が明らかにあがったこと、ノイズ(たぶんテープノイズ)がそこから入ってくることでわかる。もちろん、EMI盤では、そういうことは全くない。
なぜこの人為的操作が必要だったのか。もちろん、ここからは推理だが、ラジオで聴くことと、レコード再生装置で聴くことの違いが想定されていると思うのである。
今でもそうだと思うが、ラジオをりっぱな再生装置で聴く人はあまりいない。しかし、レコードの再生装置にはお金をかける人が多い。つまり、ラジオで聴く音は貧弱なのだ。ということは、バイエルン盤は、ラジオ放送された録音なのではないかと考えるのが自然だ。EMI盤はレコードだから、弱音をそのまま再生してもいいのだ。
ここで、ひとつの結論(もちろん推定)として、やはり、バイエルン盤は実際に放送された録音であるということだ。
しかし、だからといって、バイエルン盤が本番で、EMI盤は本番ではないということにはならない。ただし、シュワルツコップが自分のでき具合で、夫の選択に干渉したことはなさそうだということは了解できる。とすれば、やはり、EMI盤は、本番採用が自然なのだ。そうしない理由が思い当たらない。
さて、次の問題は、スウェーデン放送協会盤がでて、バイエルン盤と同じで、放送されたものだったから、やはり、こちらが本番だという論調が大勢になっている。しかし、それは本当かということだ。それには、当時の録音するということの状態を振り返る必要がある。
フルトヴェングラーは、戦前からドイツにおいて国宝級の音楽家だった。そして、ベルリンフィルやウィーンフィルの演奏会は、多くがラジオ放送された。しかし、それは、演奏会当日の録音が放送されたのではなく、事前に放送用録音として、別に演奏されたのである。徳岡直樹氏がそうした事情を克明にyoutubeで語っている。そして、現在では、その放送用の演奏や、実際の演奏会当日の録音が、両方CDになっているものが、たくさんあるらしい。それはだいたい、まず放送用の録音が実施され、そして、その後(たいていは翌日)演奏会がだいたい2回行われる。つまり、まったく同じ曲目編成の3種類のCDが、現在発売されている場合が、少なくないという。そして、フルトヴェングラーに関しては、こういうやり方は、戦後も亡くなるまで続いていたのだ。
つまり、フルトヴェングラーの演奏がラジオ放送されたとき、それは放送用に別途録音された演奏がほとんどだったことである。そう考えれば、フルトヴェングラーとしては、バイロイトの復帰演奏会が、ラジオ放送される場合、やはり、放送用録音を事前にとって、それを放送させたと考えるほうが、自然ではないだろうか。
フルトヴェングラーは、バイロイト音楽祭主催者、音楽家、そして放送協会に対して、絶対的な存在である。それまでずっと、事前に放送用に録音をして、それを流させていたのに、バイロイトは、生の演奏会の実況中継をさせるだろうか。しかも、普段一緒にやっているベルリン・フィルやウィーン・フィルではなく、寄せ集めの臨時編成のオーケストラであり、かつ事故の起きやすい声楽入りの曲だ。自然に考えれば、いつものように、事前に収録して、特に問題がなければ、それをラジオで流させるようにするのではないだろうか。
とすれば、実際にラジオ放送されたバイエルン盤は、最初から放送用の録音であり、おそらくゲネプロであるということになる。そして、ラジオで聴くことを想定して、フルトヴェングラーの異常なまでに音を小さくする歓喜のメロディーの部分は、録音上の操作をせざるをえなかった。
演奏家にとって、録音(放送も含む)と実演は違うものだ。そう考える人が多い。フルトヴェングラーも、カラヤンもそうなのだ。だから、現在録音と実演の両方の曲を聴けば、その雰囲気の差がはっきりわかる。そして、フルトヴェングラーもカラヤンも、実演のほうが大事で、そこで本当のやりたい演奏をした。しかし、放送やレコードは繰り返し聴かれるために、即興的な盛り上げよりは、端整な仕上がりを重視する傾向がある。フルトヴェングラーの晩年のウィーン・フィルとの「運命」などを聴くと、これがあのフルトヴェングラーかと訝しくなるようなおとなしい演奏だ。これはカラヤンでもまったく同様なのだ。ただし、カラヤンの時代になると、オーケストラの団員の技術水準が格段にあがるので、その差は小さくなる傾向もあるが。
そこで、EMI盤とバイエルン盤を比較すると、あきらかにバイエルン盤のほうが、即興的な揺れが少なく、きっちりと演奏しようという姿勢が強く現れている一方、EMI盤は、その場の感興で表現が強烈になる場面がいくつかある。
すると、私の結論(あくまで推論)では次のようになる。
ラジオ放送では、ゲネプロを放送用に録音し、それを流した。それは通常のフルトヴェングラーのやり方だった。EMIは、ゲネプロと本番を、特に発売する意図ではなく録音しておいた。フルトヴェングラーが、ウィーン・フィルのベートーヴェン全集を完成させることなく亡くなってしまったので、追悼も兼ねて、録音しておいたルツェルンとバイロイトの後者を発売したが、当然本番の録音を基本にした。しかし、本番は、特に3楽章に問題があったので、ゲネプロのテープを活用して修正した。