読書ノート『時間の習俗』松本清張

 最近なぜか松本清張を読みたくて、kindle版を購入して短編を中心に読んでいたが、面白そうなので、『時間の習俗』を読んでみた。清張といえば、社会派で、犯罪の動機に重点を置いた物語構成で評価されているわけだが、これは、そういう点はほとんど飛ばして、純推理小説的に、アリバイ崩しに徹している。だから、何故犯人は、殺害までしなければならなかったのか、などという清張らしいことは、ごくわずかしか触れられておらず、しかも、それで殺してしまうの?違う有効な手段があるのではないか、などは無視していると解釈すべきであろう。とにかく、アリバイをどうやって崩していくかにかけている。
 初期の傑作である「ゼロの焦点」(何故殺害したのかが中心)ではなく、「点と線」(アリバイ崩しに焦点)の路線を引き継ぐものであり、実際に活躍する刑事も警視庁の三原刑事と福岡の鳥飼刑事である。正直なところ「点と線」はあまり好きではないのだが、今回のアリバイ崩しはどうかという興味だった。
 
 物語は、車の業界紙の土肥が、殺害される。土肥は水商売風の女性と旅館に入り、宿泊を迫っていたようだが、女は承知せず、二人で散歩に出る。しかし、帰って来ない。土肥は死体で発見されたが、女はまったく行方がわからない。土肥は新宿からハイヤーで相模湖までいったのだが、途中で待っていた女を同乗させていた。
 土肥の葬式に来た、交通会社(ハイヤーやタクシーを運営)峰岡に、刑事の三原が注目する。アリバイが完璧だという理由だ。ここが、レビューなどでも問題になるが、小説の目的がアリバイ崩しなので、あまりに完璧なアリバイなので不信感を抱いた、というのは、必要な想定になるのだろう。

 その完璧なアリバイとは何かというと、犯罪が行われたとほぼ同時刻の、福岡県門司の和布刈神事で撮った写真があるということだ。この写真については、確実にその場で撮影されたもので、テレビや映画の画面を撮ったものでもなく、また、当日のものであることが証明されていく。しかも、そのフィルムの前後には、確実なアリバイを補強する写真が写っていた。神事のあと、ある旅館に峰岡はいって、そこで女中の写真を撮ってあげるのだが、それも実際に証明される。というより、小説の最初のほうにその場面が描かれている。この神事や俳句のことが散りばめられていて、単なる推理小説ではない味わいを醸しだしているのも、清張らしい。
 この小説全体が、この神事と殺人現場の両方にいたというアリバイをどう崩すかにかけており、最終場面でやっとそのからくりが解析される。
 次に、謎の女性を探すストーリーが並行して進む。この解明は、まったく偶然によるもので、通常であれば、ふたつのことは無関係に処理されてしまうのではないかと思う。
 九州の水城というところで、男の死体が多少埋められた形で発見され、少し離れたところに、女性の手袋がひとつ落ちている。死後2カ月程度である。そこで、最終的には、この男性須貝新太郎こそが、行方不明になった女性であることがわかり、口封じのために土肥が殺害したという設定になっている。この展開は、納得しないひとが多いようだ。私もすっきりしないと感じた。
・男は土肥殺害の共犯者なのだから、口封じする必要はない。しかも、名古屋のゲイバーにいるのだが、まったく気づかれていないわけだから、そのままにしておけば済むことだ。
・名古屋にいる男性が、土肥とどのように親しくなっていったのかわからないし、いくら化粧が上手でも、女装した男性に、わざわざ相模湖まで呼び出して迫るだろうか。
・殺害したあと、女性の手袋を落としておいたのは、女性が絡んだ殺人と思わせるためだったとしているが、確かにそのように警察は推察するが、そのことが、土肥殺しと関連があると、三原刑事が結びつけるのだが、手袋など落としておかなければ、単純に男性が殺されており、相模原の事件との関連など疑われる余地がないはずで、あまりに用意周到な峰岡にしては、不自然な工作だ。
 それはともかく、殺された男が、実は相模原で行方不明になった女であることが確認される。しかし、そのことは峰岡との結びつきを示すものでもなく、事件解決とは無関係となってしまう。相模原で土肥と一緒だった女が、実は男の須貝であり、九州で殺害されていたという事実は明らかになったが、厳密には、そこに峰岡がからんでいることは、全く証明されていないわけだ。
 そして、アリバイに戻る。
 そこで次に焦点になるのが、九州に出かけていた峰岡が、定期券売り場にいたという目撃証言である。何故定期券売り場にいたのか、偶然なのか、定期券を購入したのかと、三原刑事は思慮を巡らす。
 当日その窓口で定期券を購入したひとを、一人一人当って、実際に当人が購入したかどうかを、福岡県警が確認していく。当日不在だったひとなどもいたが、実際に実在の人物が購入していることがわかるが、腑に落ちない三原刑事の再度の要請で調査したところ、購入者として不自然なひと(つまり定期券など不要)がいて、しかもその人物梶原武雄が行方知れずであることがわかる。そこで、三原刑事は、峰岡が梶原の名義で定期券を購入したと考えるが、では、何に使うのか。
 この定期券の謎解きは、この小説の白眉と感じた。ただし、当時のひとであれば納得できるかも知れないが、現代の人間にとっては、とうてい思いつかない内容だ。
 まず梶原は、食品工場に勤めているが、俳句とカメラが好きで、俳句同好会にはいって、名所にいく行事では必ずカメラマンの役割をしていた。和布刈神事も当然撮影していた。俳句の同好会の人が確認している。しかし、本人は行方不明になっている。他方で、峰岡が俳句に関心をもち、俳句を投稿していることもわかっている。そこで、三原刑事は、俳句雑誌を徹底的に調べて、峰岡、梶原、和布刈神事の繋がりの可能性を見いだす。そして、梶原が撮影した写真を、峰岡が自分のカメラの空き(予めフィルムをまわして空きをつくっておく)の部分に撮影して、あたかも自分が撮影したかのように細工したと考える。そして、その方法として、梶原がカラー写真で撮影したことから、フィルム会社の現像工場に依頼する必要があり(白黒フィルムは自分で現像できるのが、カラー写真はできない)、それを東京に梶原に送らせ、峰岡が自分で取りにいったというカラクリを見破る。その際、峰岡が、梶原であることの身分証明として定期券を使ったわけである。そして、梶原には、有名カメラマンを紹介して、そこに弟子として入り込ませていたために、行方不明(一人前になるまで秘密にする)にさせていた。
 そのあと、梶原が峰岡に殺されることを心配した警察は、梶原と峰岡が潮来にいっていることを突きとめ、茨城県警が二人を逮捕したところで、話が終わる。
 
 謎の女性、実は男性である須貝の逸話は、あまり説得力を感じなかったが、梶原からみの定期券については、途中自分でもいろいろと考えてしまうほど、面白かった。尤も、定期券で身分を証明するというのは、現代人には思いつかないだろう。購入に証明が必要な通勤定期や通学定期ならば、実際に通用しないこともないそうだが、誰でも自由に購入できる普通定期券が、当時でも身分証明として使われていたかは、私にはよくわからなかった。いかにも、梶原が東京に送ることを予期して、彼に無断で峰岡が取りにいくという感じなのだが、梶原の就職を世話して、家出までさせるのだから、かなり親密に連絡をとっているはずであり、それなら、もっと確実な梶原の身分証明を入手しておくか、あるいは、梶原自身を上京させる、あるいは、定期券も梶原に購入させて郵送してもらうという手もある。峰岡が購入したために、目撃情報を作ってしまったわけである。現像所が、そんな身分証明ではだせないということはないという確信があったのか。わたすほうとしても、かなり安直な気もするのだが。時代が変わって、現在では身分を証明するものが、かなり決まってきているから、そうした時代感覚の差はあるのだろう。
 
 私自身、社会派、犯罪の動機重視の松本清張を中心に読んできたので、こうしたトリック解明ものは、知的遊技として面白いと思ったが、しかし、殺人の動機とか、手口等々については、ずいぶんラフだなと思ってしまう。そして、謎を解いていく際も、最も的確な判断をするのが、データというよりは、刑事の直感というのも、賛否あるだろう。最初から、三原刑事は峰岡を犯人だと思うのだが、その理由が、アリバイの完璧さなのだから、不自然さを感じるひとも多い。しかし、アリバイ崩しの推理小説は、目的が明確であり、それ以外は、目的のために犠牲にしてもやむをえないのだ。
 

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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