大阪放火事件から刑法39条を考える1

 大阪で悲惨で放火事件が起きてしまった。放火犯人と思われる人物は、このビル内の心療内科に通っていた可能性があるといわれ、精神疾患を患っていたと考えられている。既に、精神疾患と犯罪の認定に関する議論が、ネットでは起きている。つまり、刑法39条の問題である。
(心神喪失及び心神耗弱)
第39条
1. 心神喪失者の行為は、罰しない。
2. 心神耗弱者の行為は、その刑を減軽する。
 以前から大論争となっている条文であり、条文そのものだけではなく、個々の犯罪に関しても、精神的な疾患がからんでいる犯罪の場合には、大きな議論になっている。この39条自体が、人権を否定する違憲の条文であるという見解から、この条文をできるだけ広く適用すべきであるという肯定的な見解まで、非常に広い議論の幅がある。
 現代の刑罰の基本的な考えは、犯罪とは、意図してその行為を行い、その行為の善悪を判断できる状況で実行されたものであるというものである。従って、意図していない行為(本来注意をしなければならないが、注意を怠ったために犯罪行為になってしまった場合は、注意義務という点で意図の有無を考えるから、意図したものとされる)、そして、善悪を判断できない状態での行為は、罰しないということになっている。しかし、犯罪を罰することの目的のひとつとして、被害者救済、被害感情への対応があるとすると、被害を受けたのに、加害者がまったく罰せられないことは、被害者として納得できないという感情が強く残る。

 一般的に、日本の裁判では、この心神喪失や心神耗弱の認定は厳しく制限的であり、心神喪失が認められて殺人が無罪になることは、極めて稀である。しかし、ほとんどの場合、弁護側が主張する可能性があるために、精神鑑定が行われる。そのための費用や時間が問題とされる。
 
 この問題をどう考えるか。一般人としての考えとして整理してみたい。
 まずは、一般人だから、一番考え安いことは、自分が、あるいは自分の家族が犯罪にあったら、犯人に対して、何を望むかという問いの答えをだすことだろう。死刑廃止論者に対して、よく向けられる質問は「あなたの娘さんが殺害されたら、犯人を許せますか。犯人に死刑を臨みませんか。」というものだ。私は、死刑廃止論者ではないので、これに対する回答ははっきりしている。 
 しかし、相手が心神喪失を疑われるような状況だったらどうだろうか。日本の法律では、罪に問われないことになる。そもそも、犯罪を罰するのはなぜだろう。
 被害者であれば、加害者も苦しまなければ釣り合わないと感じる。そうした、被害感情の救済を求める。応報刑だ。これは、犯人がいかなる状況、つまり、心神喪失であったとしても、あまり変わらないように思われる。自分の家族が殺害されたが、相手が心神喪失状況なら、罰は必要ない、などと一般的には、思わないに違いない。
 こうした応報だけではなく、他にも被害がでないように願うだろう。一度犯罪を行った人間は、再びする可能性が高いと感じる。もっとも、特定の相手に危害を加える(なんらかの怨念で、特定の人物を殺害したい)場合と、誰でもよいという通り魔的な犯罪とでは、更なる被害の可能性は大きく異なってくる。社会的立場から考えれば、通り魔的な犯罪者に対しては、応報刑以外の対応が必要だと考えられる。それが殺人欲求(誰でもいいから殺してみたいという犯罪が稀にある)だろうが、精神疾患による判断不能状態であろうが、被害者の立場からは変わりない。
 
 しかし、刑法による犯罪の認定は、こうした一般的被害者感情とは、かなり距離がある。そもそも犯罪とは何かということを、刑法理論は厳密に考えるわけだ。
 犯罪の要件として、意図と善悪の判断を前提とする。幼稚園ていどの子どもが、悪いこととは思わず、だれかに危害を加える意図もなく行ったが、深刻な事態をもたらしたといっても、その子どもを罰することが適切とは、確かに思えない。大分前だが、屋上で遊んでいた小さな子どもたちの一人が、別の子どもを屋上から突き落としたことがあった。警察が、なぜそんなことをしたのか聞いたところ、テレビでしょっちゅうやっていることなので、まねしたと答えたそうだ。テレビでは、突き落とされた人は、別の番組で出ているから、別に危険なことでもなく、悪いことでもないと思っていたわけだ。この子どもを殺人罪で裁くことが正しいとは、ほとんどの人は考えなかったろう。小さな子どもは、法的無能力だから、起訴されることもないのは、犯罪をする意図や善悪の判断がまだ形成されていないと判断されるからだ。
 よく話題になる飲酒運転や麻薬による判断力低下についてはどうだろう。もし、泥酔した状態で運転していたから、人を轢く意図はなかったし、何も判断できる状態ではなかったから、犯罪は成立しないといわれたから、被害者としては絶対に納得できないだろう。麻薬についても同様だ。当然、飲酒する前は、麻薬を服用する前は、判断力があったわけだから、当然その判断力があった時点で、心神喪失か心神耗弱を認定すべきである。幸い、判例はそうした判断をしている。
 精神の病はどうなのだろうか。アメリカでは、精神疾患が認定されると、かなりの確率で無罪となるといわれている。明らかに精神疾患を患っており、幻覚や被害妄想に囚われている状況で、前から歩いてきた人物が自分を襲うと錯覚して、錯乱状態で相手に襲いかかったような状況をどう考えるか。正直判断に迷う。もし、犯罪の定義に基づけば、罰を与えることが難しい事例である。しかし、確実に被害者は存在する。家族の悲しみは大きなものだ。
 
 被害者の立場から考えてみる。
 心神喪失が明確である場合(つまり、飲酒運転などのいいわけを許さないような状況がない)、確かに罰を与えることの意味がない。罰を与えたとしても、当人の行動が改善されるわけではないと思われるからだ。子どもの犯罪の場合は、行動の改善はあるかも知れないが、小さな子どもの犯罪を罰する社会はないことでもわかるように、そのことで被害者感情が救済されるとは思われない。
 結局、被害者感情の救済は、金銭的救済にならざるをえない。損害賠償の認定を迅速に行うことや、犯罪被害給付制度の充実が求められる。
 しかし、社会の安全はどうなるのだろうか。子どもになんら矯正教育をせず、また心神喪失を認定されて無罪となった者を放置したら、社会の安全が脅かされる。
 法的に無能力である人には、かならず保護責任者が存在している。屋上から突き落とせるような場所に、小さな子どもだけで行かせることは、親としての監督責任を放棄している、職場でいえば、安全保障義務を無視していると同じような状況といえないことはない。このことは、ビル管理者についてもいえる。
 このような場合、親の監督責任を問うことで、親を罰することの妥当性はどうだろうか。実際に、民事的な責任を問うことは現在でも可能だ。しかし、刑事的にはどうなのだろうか。私は、この点をもっときちんと議論する必要があるのではないかと思うのである。もし、子どもが何度も犯罪行為をして、親の監督責任が問われているのに、親がなんら対策をとらないような場合に、親にも、「安全配慮義務」があるという論理は成立すると考えたい。
 精神疾患による犯罪を対処する方法としては、まずは保安処分が考えられ、過去何度も大きな議論になり、法案として提案もされてきた。そして、保安処分は導入されていないが、一定の条件の下での「措置入院」という制度は導入されている。やまゆり園で障害者を殺傷した犯人は、短いが措置入院の状況にあった。しかし、あのような事件が起きたことは、措置入院は有効に機能しない場合があることを意味している。(つづく)
 
 

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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