本論文は、「経済的変化の背景に横たわる心理学的問題の分析」を試みる論文である。それをベトナムと日本の比較的考察において行うとしている。ここに既にふたつの興味深い論点がある。
経済の発展にいかなる心理的影響力があるのかということ、それが現実的に異なる経済システムや文化様式をもった国に、どのような異なった形で現われるのか。
そして、ベトナムと日本を比較対象として考察するという点である。
ベトナムは、私が学生時代に最も関心を向けざるをえなかった外国の一つである。それはベトナム戦争が進行していたからだ。フランスとの戦争からアメリカに相手が移行したが、アメリカとベトナムの戦争が本格化したのは1965年であり、1975年のアメリカ敗北まで約10年続いている。高校生から大学院生前半までが、ベトナム戦争のニュースで満たされ、どれだけの効果があったかは疑問であるが、街頭にたってベトナム支援の募金活動なども行った。ベトナム人の女性が、「アメリカはベトナムの子どもをたくさん殺しているが、ベトナムはアメリカの子どもを一人も殺していない、これがこの戦争の本質なんだ」と語った言葉は、いまでも鮮明に覚えている。
大学院の先輩でベトナムの社会と教育を研究している人がいて、彼からいろいろと教わったこともあった。そういう点で、ここでベトナムと日本の比較をしていることは、興味をもたざるえなかったのである。
さて、本題に戻るが、筆者は、「新古典派による合理性を前提とした費用・便益計算による行動仮説」だけでは社会現象の説明は難しいというところから出発し、新制度派経済学で補完するとしている。つまり制度分析が必要だということだが、では制度とは何か。これが実は難しい。
辞書的に確認しておくと、「制度」について、ブリタニカ国際大百科は、「学習すべきことの規範的な妥当性が、社会的に認定されているものとして認知されるような行動様式。」としており、日本大百科全書は、「複合的な社会規範の体系を意味する。端的にいえば規範の複合体である。」
明確に異なる説明といえる。一方は「行動様式」であり、他方は「社会規範の体系」である。「妥当性が認知される行動」といっても、妥当性の認知が、社会内で対立している場合もある。それは社会規範についてもいえる。法的に決められた規範と考えても、法が守られない場合も少なくない。いずれにせよ「制度」はかなりやっかいな概念なのである。
幸田氏の依拠するのは、「社会規範の体系」に近い。
制度変化の問題がある。幸田氏は「制度変化は一つの均衡から他の均衡への推移を意味するが、そういう推移は現行のゲームのプレイの仕方に関して、人びとのあいだで心理的な懐疑、動揺が同時に起ることが引き金となるが、そうした動揺は外部的ショック、または何らかの内部的矛盾の蓄積、あるいはその両方の結合によって生ずる」としている。
ここで更に困難にぶつかる。制度は社会的に承認された規範であったり、あるいは妥当な行動様式であるのに、なぜ制度変化が起きるのかという点である。たまたまだれか、あるいはより多人数がその妥当性に疑問をもったり、また妥当ではない行動に走ったりすることで起きるのか。「たまたま」という偶然なのか、あるいはその社会内部に蓄積してきた変化に対応できない何かが、新たな規範に押し出されるのか。本論文では明らかにされていないが、私には興味がある点である。
ここでは、そうした制度変化への対応、あるいは制度変化の調整機構としての「共同体」が重視されるのが、新制度学派であるという。そこで重要な概念となるのが「集団主義」であろう。(つづく)