経済の発展とは何かという基本問題は、定説があるのかどうか、経済学が専門ではない私には厳密にはわからないが、生産力や生産性、それを支える経済的・政治的システムなどが総合的に判断されるのだろう。では、発展する理由は何なのだろうか。長い時代同じような生産が行われ、生産力がほとんど変わらない社会も歴史的には存在した。遠い昔は別として、封建時代から何故資本主義生産が発展してくるのか、また、資本主義経済においても、いろいろな段階がわけられるほどに、発展は可視的である。そういう展開は何故生じるのか、まだ明確な説は存在しないのだろう。
まったく別の視点で、マルクスの「資本論」は、資本が自然法則のように、いわば人間の問題を捨象して、展開していく過程を描いて見せた。自然史的過程としての資本の法則である。しかし、マルクスとしても、それが現実の社会のなかで、その通りに展開していくわけではなく、さまざまな要因、歴史的な社会状況、自然、人間的要素(文化・教育など)が絡み合って、実際の経済現象が生じるのだから、やはり、資本主義が本来内的な発展要素があるとしても、それを現実に動かしていくのは人間である。では、人間のどのような側面なのか。
市民社会は欲望の体系である、欲望が動かしている、という言葉がある。では、どのような欲望なのか。欲望といっても、金銭欲、名誉欲、権力欲等々いろいろな欲望がある。金銭欲が経済を展開させることは自然に理解できるとしても、名誉欲や権力欲はどうだろうか。
「経済発展にともなう制度的環境変化と心理的段階推移の日越比較」という幸田達郎氏の論文は、この問題に、マズローの欲求階層説を適用して、経済の発展をマクロ的に分析しようと試みた極めてユニークな論文である。中村博他編の『東アジアにおける企業戦略と制度的環境 新制度派経済学と非市場戦略の視点から』(中央大学出版)に収められている。
何故私が専門外の論文について書こうとしているのかは、実に単純で、幸田氏が私のかつての同僚で、研究者として尊敬している人であり、この著書を贈られたからである。そして、そのユニークな試みに新鮮な感覚を覚えたからでもある。専門家の研究は、どうしても小さなテーマを詳細な資料をもちいて分析するものが多いのだが、そのような極小の領域を扱った論文は、緻密に構築されていても、理論全体に影響を与えるのか、という疑問を生じさせるようなものが圧倒的に多いのである。やはり、社会を変革するためには、大きなテーマ、マクロの領域を理論構築するような研究が必要なのである。しかし、実はそれは非常に難しいし、冒険でもある。どれほど先行研究をチェックし、緻密な論理構築をしても、より狭い領域で研究したものからは、あら探しをされることになりがちである。そうして、社会科学も自然科学と同様、より狭い領域の研究に引き寄せられていくことになる。
だが、だれかが、大きな領域をフォローし、現実に社会全体を動かすものは何なのかを究明しなければ、社会の発展はない。
幸田氏の試みは、まだ試論だと断っているが、そうした雄大な構想を感じさせる点で、大いに読みごたえがある。
以後数回に渡って、私なりの論評をしていきたいと思う。(つづく)