福島県の小学校で、校長が飲酒で再三教育委員会から注意を受けていたが、是正されず懲戒処分をうけたという記事があった。「「アルコールのにおいがする」小学校の校長が校長室で“飲酒” 市教委が計9回指導・福島」https://news.yahoo.co.jp/articles/724853b992721c505db7330b6e8202f96cdd335e
また別の記事では、「校長が児童を突然怒鳴る、学校内の飲酒で発覚 市教委の報告漏れも」https://news.yahoo.co.jp/articles/4554274c6bc3eeb291b1d9566dcbcd0f873d1b65
正確にはわからないが、同一の校長だと思われる。
最初は前者の記事を読んでいたのだが、後者の記事を読むと、校長が女性で、暴言をはいていたことが書かれている。このようなことが起きても、別にあまり驚かなくなっている自分が、少々怖い気もするが、現在の日本の校長の存在形態からみれば、別の形ではあれ、問題をもった校長や教頭が少なくないことは、充分に推測できる。
学校内で飲酒をするという行為は、私が生徒や学生だった時期から考えれば、圧倒的に少なくなっていると思われる。小学校などでも、運動会や遠足のあと、ご苦労さん会などが校内で開かれて、教師たちが飲酒をしていることは、ごく普通に知られていたし、また、特に問題にする風潮もなかった。さすがに、二日酔いで授業をしているというような事例は、私は接したことがなかったが、高校ではそういう教師がいた。ごく稀だったが、そのために授業がなされないこともあったと思う。しかし、実に異例なことに、その先生はとても実力のある先生だったので、どこかの大学の先生になった。
大学だが、私が学んだ大学においても、また、勤めていた大学においても、研究室に酒類をおいていて、一日の授業が終わったときに飲んでいる教師はいた。あまりに出席が少なくて、研究室で授業をしたときに、ウィスキーを飲みながら授業をしていた教師も一度だけ経験した。演習なので、学生が発表しているので、とくに支障はなかったのだが。
もちろん、さすがにいまはほぼいないと思われるし、また、発見されたら問題になるだろう。そういう意味で、学校という世界では、学校内での飲酒は、厳しい目でみられるし、また正式にルールで禁止されているところも少なくないだろう。いいことであるが、酒好きの教師にとっては、きびしい世の中になっている。
そういう点で見ると、上記の事例の異常さは、単に頻繁に飲酒をしていたということにとどまらずに、教育委員会がそれを把握して、指導していたにもかかわらず、一年近くも改められずに推移し、その間は処分もされなかったという点にあるだろう。ヤフコメなどでも、その点を指摘する投稿が多かった。
後者の記事によると、たまたま車に積んであった缶チューハイを校長室にもってきて、残っていた分を飲んでしまった、しかし、常習性は否定したと書かれている。だが、この記事を素直に読めば、この校長は、校長室で残りのチューハイを飲んだのだし、車で通勤しているようだから、飲酒運転をしていたことになる。そもそも、車に酒類を積んでいるなどということは、通常のドライバーでは絶対にしないはずである。もちろん買い物の場合は別であるが、それなら、100%家にもっていくはずで、校長室にもってくることなどはありえない。やはり、この人は常習的だったのだろうし、中毒性があったと考えられる。そうした校長、つまり学校の最高責任者を一年近くも事実上放置していた教育委員会の責任は免れないだろう。
さて、少々ずれるが、校長へのなり手が年々減っていることも大きな背景としてあるような気がする。教師志願者が減って、定員を満たせない場合が少なくないほどであるが、校長等管理職の志願者も大きく減っている。校長の重要な役割が、教師たちに管理職試験を受験させることだ、などとも言われるほどである。教師や校長の量だけではなく、必然的に質も低下すれば、それは社会的な大問題である。私は20年以上も前から、やがて教師不足に悩んでいた欧米のように、日本もそうなると警告してきたのだが、残念ながらそれは現実になってしまった。
では教職や教職管理職の志願者がかくも減ってしまったのは何故か。教職志願は民間企業の景気に左右されるなどともいわれるが、現在の原因としては、それはあったとしてもごくわずかである。理由は端的に、学校職場がブラック化しているからである。ブラック化している職場に、有能な管理職が多数そろうことなど、考えようがない。日本の義務教育制度の歴史では、校長はずっと国家の管理機構の最末端として位置づけられ、極めて非教育的な行為を求められてきた。したがって、教育者ではない管理者という人が非常に多かったのである。もちろん、例外もいるのだが。
なぜブラック化したのか、どうすればよいかは、また別の機会に論じることにして、こうした背景のなかで、このような校長が生れやすい背景があるのだ、ということは認識しておくべきだろう。