読書ノート「発達障害は学校からうまれる」井艸 恵美 東洋経済オンライン

 読書ノートというのは多少おかしいかも知れないが、東洋経済オンラインに「発達障害は学校から生まれる」という連載のレポート記事がある。まだ継続中だが、学校現場のこまっている面、また筆者によれば、弊害を生んでいる側面について、深刻な報告がなされている。
 現在第6回まで進んでいるが、最初のほうは、もっぱら発達障害児に対する投薬治療の弊害を、患者たちの取材に基づいて警告を発している。詳細は、記事を読んでもらうことにして、自分なりに考察してみたい。
 ここで書かれていることを整理すると
・子どもに対して、安易に向精神薬を使用するのは問題があり、さまざまな弊害が生じている。
・近年は、こうした子どもの発達障害に対する薬物使用が広まっており、教師の側から、親に勧める事例も多くなっている。
・こうした状況に、警告を発する医師や教師もいる。
・子どもの発達障害は増加しており、その原因は環境によるところが多い。
・発達障害に関する文科省の大がかりな調査があり、通級学級から、特別支援学級、特別支援学校への、事実上の誘導がなされている。
 以上のようなことだと解釈できる。

 
 私も、発達障害の増加は、環境によることが多いと思っているが、妊娠から出産に至る経緯によるものも、一種の環境として考えることができると思う。しかし、この環境問題を指摘することは、どうやらタブーのようになっている面もある。そうしたタブーは、やはり、正確な原因認識と対策のためには、乗りこえる必要がある。
 そのタブーは、実はこの連載にも表れており「発達障害は学校から生まれる」という言葉も、タブーに影響されていると、私には思われるのである。「発達障害は学校からも生まれる」という題であれば、タブーに囚われるべきではないという意識を感じるのだが。「発達障害は家庭からもうまれる」というべき側面もあるのである。しかし、それは親に責任を押しつけることになり、いうべきではない、という感覚が「タブー」である。特別支援教育を学んでいる学生たちには、この意識が非常に強かった。彼らにその意識が強いのは、多くが兄弟・親戚に障害をかかえたひとがおり、子どものころから、家庭や親の責任を周囲から指摘されて、嫌な思いをしてきた経験があることと、大学での授業で、家庭の責任ではないのだ、そう考えるべきではないと教えられているのではないかと推測する。しかし、原因を正確に追求しようとすれば、タブーは除かねば、最初から正しい認識を歪めてしまう。かつて「母原病」という言葉が流布したことがあり、子どもの病気は母親の育て方が原因だと主張していた。あまりに乱暴な議論だったこともあり、逆に、母親の育て方とは無関係であるという論が「前提」となっているといえる。母親に限らず、親の育て方が原因で、子どもに問題が生じることがあることを否定することはできない。
 
 さて、発達障害児が増えてきたのは、環境の影響が強いというのは、単純に私の生活実感に基づいている。私が子どものころ、まだ高度成長が始まる前のことだが、そのころは、今のような現代的生活とはほど遠かった。三種の神器といわれる電気製品が普及する前のことだ。おそらく戦前までの生活とあまり違わなかった。つまり、電化が進み、交通事情もまったく変わってしまった高度成長以降と、それ以前のさまざまな環境変化を、リアルタイムで経験した立場から考えている。
 何が大きな違いか。高度成長前は、次のような生活上の特質があった。ちなみに私が育ったのは、東京の世田谷区で、当時から郊外の住宅地域だった。
・食材は、ほぼ毎日店にいって購入して、だいたいその日のうちに消費した。(冷蔵庫は、普及していなかった。)
・車は極めて少なく、空気もきれいで、毎日富士山が、晴れていれば終日見えた。子どもが、どこかに遊びにいくときには、歩いて出かけた。
・空き地がたくさんあり、子どもたちは、そこで十分に身体を動かして遊んだ。
・テレビはほとんど普及していなかった。
・井戸水を使う家庭も少なくなかった。(我が家も井戸水を使っており、水道をひいても、井戸を併用していた。)
・塾通いや習い事をする子どもは少なかった。
 
 食材を毎日買うことは、現在のように大量に買い込んで冷蔵庫で保管することがなかったからだ。従って、防腐剤等の保存料や様々な食品添加物などはなかったことを意味する。化学的な添加物が脳に影響を与えて、障害やアレルギーを引き起こしているのではないかと、厳密に科学的に証明されているのではないようだが、私は大いにありうることだ思っている。現在の生活形態では、保存料などは必要だろうが、不要な添加物が大量に用いられており、特に小さな子どもをもつ家庭では、より注意が必要である。しかし、学生に接してきた限りでは、添加物に注意を払っている学生には、ほとんど出会ったことがない。
 車が少なく、空き地がたくさんあることは、子どもたちが、思い切り身体を動かして遊ぶことを可能にしていた。比較的遠くまで出かけても、親としてあまり心配しないし、十分に遊ぶ空間があり、その空間の所有者からクレームがついたことも、記憶にない。テレビがないことで、自然に子どもが外に向かう。
 習い事がほとんどなかったことは、放課後に一緒に遊ぶことを可能にする。私が子どものころも、ほぼ毎日放課後はどこかに集まって、一緒に遊んだものだ。いまでも地方ではそうした地域もあるかと思うが、高度成長以前は、東京の住宅地でもそうだったのだ。
 こうして、身体を十分に動かして遊ぶ、運動しておくことは、身体を健全に発達させ、それが静かにしている筋肉も作っていくと、私には思われる。ADHDの子どもは、私が小学生のときには、ほとんどいなかった。座っていることができなくてたち歩いたり、教室をでていった子どものことなどは、私のクラスにはもちろん、話としても聞いたことがない。皆無だったとはいわないが、極めて例外的であったことは間違いない。毎日疲労するほどの運動を、しかも遊びとして行っていれば、ADHDなどには、ほとんどならないのではないだろうか。
 自閉症スペクトラムに関しても、小さいころから日常的に近所のひとや同級生たちと、普通に遊ぶ経験に乏しいために、対人関係を発達させることが遅れていることも、原因のひとつではないだろうか。
 この点について、大学で教えていることについて、学生と頻繁に議論したことを覚えている。特別支援教育の免許を取得している学生は、ほとんど、自閉症は脳の器質的な異常のために生じているので、育ち方とも関係ないし、教育的な訓練で治ることもないと、教えられ、そのように信じきっているようだった。そもそも、脳の器質的な異常で自閉症がおきるということは、科学的に確認されたことではない。また、脳の異常だとしても、それは遺伝等による可能性よりは、後天的な環境によるインプットとアウトプットの特質によって起きることも多いのである。
 
 胎内環境、出産、食事、遊び、対人関係等々の無限の積み重ねによって、発達障害が起きるのではないだろうか。家庭に要因がある場合もあるし、学校の場合もあるだろう。特に学習障害などは、初期の教え方に影響されることもあるに違いない。従って、記事の主張するように、安易に投薬をすることには、強い疑問を感じる。発達障害を生じさせた要因(あるインプットの欠如)を究明して、学び直しをすることが有効だと、私は確信している。
 
 

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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