バーンスタインの『トリスタンとイゾルデ』

 バーンスタインの『トリスタンとイゾルデ』のブルーレイ・ディスクをやっと聴き終えた。前に書いたブルゴスのベートーヴェン交響曲全集と一緒に購入し、ブルゴスはすぐに聴いたのだが、こちらは、かなり間をおいて、一幕ずつ聴いてきた。なにしろワーグナーものは、時間がないと聴くのが難しいし、やはり決意がいる。ヴェルディなら気軽に聴けるが。
 もうひとつ躊躇の理由として、かなり以前になるが、最初にCDが発売されたときに、トリスタンのペーター・ホフマンが、この録音に対して、かなり悪口を述べているインタビュー記事があったのだ。この録音は、ほんとうに嫌だった、しかし、カラヤンとの『パルジファル』は、とても楽しかったし、充実していたというような内容だった。そのために、CDを買う意欲は起きなかったのだが、BLが発売され、しかも在庫整理ということで、かなり安かったので購入したわけだ。

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大阪放火事件から刑法39条を考える1

 大阪で悲惨で放火事件が起きてしまった。放火犯人と思われる人物は、このビル内の心療内科に通っていた可能性があるといわれ、精神疾患を患っていたと考えられている。既に、精神疾患と犯罪の認定に関する議論が、ネットでは起きている。つまり、刑法39条の問題である。
(心神喪失及び心神耗弱)
第39条
1. 心神喪失者の行為は、罰しない。
2. 心神耗弱者の行為は、その刑を減軽する。
 以前から大論争となっている条文であり、条文そのものだけではなく、個々の犯罪に関しても、精神的な疾患がからんでいる犯罪の場合には、大きな議論になっている。この39条自体が、人権を否定する違憲の条文であるという見解から、この条文をできるだけ広く適用すべきであるという肯定的な見解まで、非常に広い議論の幅がある。
 現代の刑罰の基本的な考えは、犯罪とは、意図してその行為を行い、その行為の善悪を判断できる状況で実行されたものであるというものである。従って、意図していない行為(本来注意をしなければならないが、注意を怠ったために犯罪行為になってしまった場合は、注意義務という点で意図の有無を考えるから、意図したものとされる)、そして、善悪を判断できない状態での行為は、罰しないということになっている。しかし、犯罪を罰することの目的のひとつとして、被害者救済、被害感情への対応があるとすると、被害を受けたのに、加害者がまったく罰せられないことは、被害者として納得できないという感情が強く残る。

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生活保護訴訟 コピペ問題を考える

 生活保護費の減額をめぐって起こされた全国29の訴訟の判決が、いくつかでているが、今年になってだされた福岡(5月)、金沢(11月)、京都(9月)の判決に、同じ文章があり、また、誤字(NHK受診料)が共通して使われていたということで、コピペをしているのではないかという騒ぎになっている。もちろん、正確なことはわからないし、判事たちが、コピペしましたなどと認めるはずもない。また、裁判官は同じワープロを使っているはずなので、似たミスをする可能性もあるし、報道されている文章については、決まり文句的な表現でもあるので、似たとしても不自然ではないともいえる。判決文というのは、原告と被告の主張を整理して、どちらかの論理を採用するわけだから、被告が同じである以上、裁判が異なっても、同じ被告が同じような陳述をしているはずで、コピペしなくても、似たような判決文になる可能性は、小さいとはいえないだろう。
 また、原告にしても、29の訴訟を起こす集団訴訟だから、原告団として共通の文書を用意しているだろうし、そこではコピペが多用されていると想像できる。
 従って、私はコピペがあるから問題だとは、必ずしもいえないと思うのである。

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読書ノート『象徴の設計』松本清張

 今、日本の歴史で気になっているのは、幕末の尊皇攘夷思想が、なぜ、あれほど実力行使をするほどの外国排斥の思想になったかということ、そこから、どのように中国・朝鮮に対する差別意識が形成されたか、そして、明治にどのようにして天皇制が形成されたのかということだ。前のふたつは、現在、特に中国や韓国に対するヘイト的行動となって継続していること、3つめは、小室問題ですっかり国民の信頼が揺らいだ皇室の今後を考える点で、欠かせない歴史的な視点である。
 松本清張の『象徴の設計』は、軍人勅諭をつくるに至る山形有朋を中心とする政治の裏側を描いた作品で、清張の歴史物のひとつである。表面的な歴史学習では、明治15年に明治天皇が発布した軍人のための文書であるという程度しか教わらないが、実際にこの文書を作成した山形有朋が、なぜ、どういう問題意識でつくったのか、手にとるように理解できる。考えてみると、明治政府にとって、本当に切実な問題であるが、実は、現在の日本でも、似たような課題があるのだ。

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国民の教育権論の再建9 親の教育の自由1(持田栄一論2)

 持田は、公教育は国家が共同化した制度だから、そこに加われば、当然体制内化してしまうという状況認識を前提にして、親の復権のためには「参加」が必要であるという。しかし、参加すれば「体制内化」するのだから、持田のいう復権にはならないはずであるという矛盾を含んでいることだった。
 持田によれば、国民の教育権論のようなPTA民主化論では、変わらないし、また、話し合うだけでは済まない。そういうことで変わるというのは幻想共同体である。他方、PTAの無用論や解体論の立場には立たないと明言している。解体しても、何も生まれないからだ。(p106)
 存在している制度に組み込まれれば、体制内化してしまうので、それは誤りであるという議論は、当時さかんになされた。しかし、本当に誤りであり、体制内化しないためには、その制度に組み込まれないこと以外にはない。国家が設置した学校に通わず、フリースクールやホームスクールをする以外にはないだろう。PTAへの参加も同様だ。PTAは任意参加だから、加入しないことは十分に可能であるが、持田は、そういう無用論や解体論には与しないという。そこからは何も生まれないという。

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フルトヴェングラー バイロイト第九 やはりEMI盤が本番だ

 またまたフルトヴェングラーのバイロイトネタで、我ながらしつこいと思うのだが、最近、この問題は、情報の信頼性、情報と事実の関連の吟味という点で、非常にいい材料だと気づいたのである。そこで、更に拘ってみた。つまりメディアリテラシーのチェックということになる。
 前回の最後に触れたが、もしEMI盤が本番ではなく、ゲネプロであるとしたら、フルトヴェングラーの追悼盤としてバイロイトライブ演奏をレコードにするにあたって、なぜ、本番ではなく、ゲネプロを採用するのかという疑問は、強く残る。両方の録音をもっていて、わざわざ本番を採用しないとしたら、かなりの理由があるはずである。ルツェルンの第九を追悼盤にしなかったのは、EMIの担当責任者であるレッグの夫人であるシュワルツコップが反対したからであるということになっている。それを信じるしかないから、その前提で考えると、やはり、シュワルツコップが本番の採用に反対したという理由が、まず思い浮かぶ。それで、再度、EMI盤とバイエルン盤の両方をかなり注意して聴き比べてみた。ただし、シュワルツコップのチェックが目的なので4楽章のみ。

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読書ノート『時間の習俗』松本清張

 最近なぜか松本清張を読みたくて、kindle版を購入して短編を中心に読んでいたが、面白そうなので、『時間の習俗』を読んでみた。清張といえば、社会派で、犯罪の動機に重点を置いた物語構成で評価されているわけだが、これは、そういう点はほとんど飛ばして、純推理小説的に、アリバイ崩しに徹している。だから、何故犯人は、殺害までしなければならなかったのか、などという清張らしいことは、ごくわずかしか触れられておらず、しかも、それで殺してしまうの?違う有効な手段があるのではないか、などは無視していると解釈すべきであろう。とにかく、アリバイをどうやって崩していくかにかけている。
 初期の傑作である「ゼロの焦点」(何故殺害したのかが中心)ではなく、「点と線」(アリバイ崩しに焦点)の路線を引き継ぐものであり、実際に活躍する刑事も警視庁の三原刑事と福岡の鳥飼刑事である。正直なところ「点と線」はあまり好きではないのだが、今回のアリバイ崩しはどうかという興味だった。
 
 物語は、車の業界紙の土肥が、殺害される。土肥は水商売風の女性と旅館に入り、宿泊を迫っていたようだが、女は承知せず、二人で散歩に出る。しかし、帰って来ない。土肥は死体で発見されたが、女はまったく行方がわからない。土肥は新宿からハイヤーで相模湖までいったのだが、途中で待っていた女を同乗させていた。
 土肥の葬式に来た、交通会社(ハイヤーやタクシーを運営)峰岡に、刑事の三原が注目する。アリバイが完璧だという理由だ。ここが、レビューなどでも問題になるが、小説の目的がアリバイ崩しなので、あまりに完璧なアリバイなので不信感を抱いた、というのは、必要な想定になるのだろう。

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川口市いじめ訴訟の判決が近くでることに

 毎日新聞に、川口でのいじめ訴訟の判決が近いことが報道され、詳しく経過も載っている。https://news.yahoo.co.jp/articles/9eff06731565e238c72201f265772371af756429
 読んでいて暗澹たる気持ちになってくる。もう大部前のことになるが、教員の免許更新講習で、教育法について担当したとき、教育裁判に触れ、訴訟になる学校での事件は、ほとんど例外なく、学校側の対応が不誠実である場合に起きる。起きたことが不幸であったとしたも、学校や教育委員会が被害者に誠実に対応すれば、訴訟にはまずならないと説明していた。民法の「信義誠実の原則」は、教育の事件については極めて重要なのだ。毎日新聞に紹介された事例は、いかに教育委員会や学校が、「信義誠実の原則」を踏みにじっているかの、端的な事例になっている。しかも、調べていくと、実はほぼ同じ時期に、もっと悲惨ないじめ事件が川口市の中学で起こっており、そちらは何度か自殺未遂があったあと、卒業後に自殺に至っている。何か、川口市の教育委員会には、特有の問題でもあるのだろうかと考えてしまう。しかも、両事件とも、サッカー部でのいじめが中心となっている。

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フルトヴェングラー バイロイトの第九(コメントへの回答)

 ハンスリックさん、コメントありがとうございます。また、貴重な情報、参考になります。
 ところで、拍手ですが、ゲネプロがどのように行われたかは、厳密にはわかりませんが、戦後の最初のバイロイト音楽祭ですから、準備等がかなり大変だったろうし、大規模な音楽祭ですから、集まっているひともかなりたくさんいたはずです。また、メディアなどの取材、録音スタッフなど、音楽関係ではないひとたちも。ゲネプロを一般公開しなかったとしても、本番を聴けない関係者たちが、ゲネプロにはたくさん聴衆としていたと考えるべきでしょう。そして、いざというときのためにゲネプロをちゃんと録音することになっているのですから、実は本番の演奏会と同じような形式で行われたと思われます。私自身、ゲネプロと本番の両方を聴いたことが2回あります。いずれも小沢征爾指揮のサイトウキネンフェスティバルで、「ファウストの劫罰」と「ロ短調ミサ」でした。行われた形は、ゲネプロも本番もまったく同じでした。更にゲネプロだけのときもあり、ベートーヴェンの交響曲でしたが、演奏が終わって拍手するところまでは、通常の演奏会と同じでしたが、そのあとで、「本日は稽古なので」と小沢さんが断って、そのあと20分程度の練習をしていました。つまり、拍手や足音があるのは、本番でもゲネプロでも同様なのです。ただし、演奏後の拍手は、本番のほうが多いのではないかとは思いますが。EMI盤も前後の拍手がありますから、決め手にはなりません。

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ジャーナリストによる名誉毀損訴訟2

 前回、安田氏は、極めて狭い価値観からものごとを見ているのではないかと書いた。それを感じるのは、小室圭-真子氏の結婚に対する見方である。
 「皇室と結婚の報道に感じる理不尽さ」と題する文章を日経新聞のCOMEOというサイトに書いている。皇室と結婚の「報道」に感じる理不尽さ|安田菜津紀(フォトジャーナリスト) (nikkei.com)
 
「両性の合意に基いてのみ」婚姻が成立するはずのこの社会で、生まれながらにして「国民」扱いされず、寄ってたかって自身の結婚を「認める」「認めない」と言われ続けなければならない立場に置かれてしまう不条理…報道に触れる度、そんな違和感を抱いていた。
「こっちは税金払ってるんだから」という乱暴な声さえ耳にする。自ら立候補した国会議員と違って、彼女は生まれながらにして今の立場にある。「お金が絡むんだから結婚にも口を出されて仕方がない」かのような立場に誰かを追いやっていること自体が、非常に理不尽ではないだろうか。
 
 このあと、小室圭氏の帰国時の騒動について触れているが、ロンゲがどうのこうのという報道については、私も呆れていたので、その部分については特に異論はない。問題は、上の引用部分だ。

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