いつものように、昨日と今日箱根駅伝で行われ、大いに盛り上がったようだ。あまり関心はないのだが、家ではテレビをつけているので、食事などのときに一緒に見ている。ただ、毎年のことだが、いつも疑問に思うことがあるので、そういう文章も必要だろうと思い、整理してみた。
最も強く疑問に思うのは、ランナーたちの間を走る車やバイクの多さである。テレビ放送のためにカメラを積んだ車両が走るのは仕方ないとして、近年は、コーチが乗った車が走者の後ろを走り、頻繁に指示を与えている。だから、ランナーは、前を走る人の姿が非常に見えにくいに違いない。この点の疑問はいくつもある。
まずは排気ガスだ。これはずっと気になっていたので、マラソンや駅伝の選手に間接的に確認したことがあるが、ほとんど電気自動車などは使われていないそうだ。排気ガスが身体に悪影響ではないか、電気自動車を使うべきではないかという質問には、「そんなこと考えたこともない」という回答だったので、逆にびっくりしたほどだ。最近は、排気ガス規制も強くなっているので、以前ほどの害はないのかも知れないが、それでも、選手の健康を考えれば、排気ガスのない車両にすべきではないか。
第二に、闘っているアスリートは、自分の判断力に依拠してレースをすべきであって、コーチがぴったりついて、データを分析しながら指示することなどは、アスリートの判断力を阻害するもので、本当に強い選手を育てなくするのではないか。コーチが途中で指示をだすことが認められている競技もあるが、駅伝のように、ずっとつきっきりで指示できるような競技はあるのだろうか。
次に駅伝という競技自体についてだ。
駅伝という競技は、日本で発明され、盛んなのは日本くらいらしい。そして、国際競技として認定されているのは、マラソンと同じ距離を6区にわけて走るもので、日本の競技のように、一日、二日かけるような駅伝は、少なくとも国際陸連においては、実施されていないようだ。
私が若いころは、まだ駅伝はあまり盛んだったとはいえない。箱根駅伝が毎年の正月行事になり、テレビ中継されるようになって、今はいろいろな駅伝大会があるし、また年齢層も厚くなっているが、それに比較して、国際的な長距離競技のマラソンは、弱くなってきたように思うのだ。
もちろん、日本独自のスポーツがあっていいわけだし、また駅伝には十分な魅力があるわけだが、決して、日本の駅伝関係者も日本で完結するものとして、駅伝をとらえているわけではなく、マラソン選手を育成する上でも意味があると考えているような発言をする。しかし、どうもその成果はあまりないようだ。とすると、スポーツとしてガラパゴス化しないだろうかという不安がある。
スポーツは、近年ますますスポーツナショナリズムに陥っている印象を受ける。海外の競技を日本のテレビがニュースで流すときにも、日本人選手が活躍している場面に限定されていることが多い。大リーグのニュースなどが顕著だ。なんとか、海外からの参加を実現するとか、あるいは、駅伝そのものを国際化(マラソンコースを分担するような簡易駅伝ではなく)の努力がもっとなされるといいと思うのだが。ツール・ド・フランスのように、行われる場所は、フランスであるとしても、参加者は国際的という大会としての駅伝があってもいいのではないか。
私は、詳しくはわからないが、駅伝とマラソンは、選手に求められるものが異なるという。駅伝はチームワークが必要で、それぞれのコースの特質によって、選手を振り分ける。しかし、マラソンは、自分一人で全コースを走るわけだし、チームワークは求められない。箱根駅伝のように、コーチがずっと後ろに車で走りながら指示を与えるなどということは、マラソン選手育成にとっては、マイナスではしかないように思う。マラソンは、自分でペース配分をコントロールできなければいけないわけだが、最近の駅伝をみると、自分の判断力育成を軽視しているように見える。
駅伝選手とマラソンの選手養成は、やはり、分ける必要があるのではないだろうか。