旭川の事件に関しての続きであるが、今回は、論点になる部分についての考察をする。
1 いじめと自殺との関連性
当時の校長は、いじめも否定し、当然自殺との関連をも否定しているわけだが、いじめというよりは、犯罪にまで至る行為であったことは疑いない。しかし、このいじめ・犯罪行為と自殺の関連性については、簡単にはいえない要素があることも事実だ。
というのは、いじめ・犯罪行為があったのは、2019年の4月から6月までであり、その後被害生徒は入院不登校となり、9月には別の学校に転校してしまい、そこでも不登校と入退院をしている。これまでの報道を見る限りは、転校先の中学で、同様のいじめを受けたようには言われていない。しかし、PTSDを患い、苦しんで入院しており、その原因がY中学でのいじめ・犯罪であることも疑いようがない。自殺をしたのが、2021年の2月であるから、かなり日時が経過している。そして、2020年に、インターネットの相談コーナーでの相談の会話を聴いている限り、もちろん悩んでいるが、本人の対応はしっかりしている。
自殺の要因が、Y中学時代のいじめ・犯罪であったことは間違いないと考えられるし、教育学的、あるいは臨床心理学的には、そういう結論でよいし、また、そうした判断 が今後役立つ教訓となるだろうが、これが裁判となって、法的な責任を問うことになると、異なる判断をしなければならない。つまり、自殺は予見可能だったのか、そして、可能だったとして、防ぐことができたのかということだ。まだ被害者がY中学に在籍していて、自殺の日時が1年早ければ、予見可能、対応可能だったといえる。しかし、事件から1年半後のことであり、しかも、転校して別の学校にいってからも1年以上経過している。引っ越してもいるわけだから、Y中学として対応することが難しいことは間違いない。もちろん、転校先への申し送りとか、旭川市の教育委員会が取り組むことはあったとはいえる。従って、市としては、防ぐことはできなかったとしても、必要な対応をとることは求められていたと考えるべきだろう。
災害があったり、また生徒たちの心身に悪影響を与えるようなことが起きると、臨床心理士たちを派遣して、生徒たちの心のケアをすることが一般的になっている。そういう意味では、旭川市の教育委員会は、被害者の心のケアを継続的に行うべきであった。これを怠ったことは、やはり、責任があるというべきだろう。
2 いじめと転校の問題
現在、公立小中学校の選択は認められていない地域が圧倒的であるが、いじめを理由とした転校は、文科省が転校理由として認めている。この被害家族は、しかし、その規定を活用して転校したのではなく、もっと被害を受けないように、引っ越して転校した。転校先で悲劇が起きることは少ないと思われるが、これはどのように考えられるか。
私が、学校選択問題に関心をもち、研究対象としたのは、1980年代にいじめによる自殺が頻繁に起きるようになり、そのなかのいくつかは、いじめの被害者が転校したあとターゲットになった生徒が、自殺する事例がいくつかあったからだ。転校した生徒は最悪の事態を免れ、転校しなかった生徒が、大きな被害を被ったわけだ。
学校制度論として、こうした悲劇を防ぐこと道はないのかと考えたとき、当然転校はそのひとつだったが、最初から学校を選択できれば、もっと効果があるのではないかと考えた。そして、全国的に統一して、学校選択制度が徹底しているオランダを知り、その後オランダの教育を研究するようになった。
結論をいえば、オランダでもいじめはあるが、いじめを苦にした自殺は、聞いたことがないというのが、オランダ人が語ってくれたことだ。オランダでは、通学区は存在せず、かならず学校を選択して登録する必要がある。そして、登録された生徒数が一定数以上いないと、公費補助がでないので、学校はつぶれてしまう。だから、学校の社会的評価は極めて重要なのである。もし、いじめが発生して、学校が適切な対応をとらなければ、生徒たちは転校してしまうし、また翌年登録志望者が激減する可能性がある。そうならないように、学校はいじめに対して、真剣に取り組まざるをえないのである。
だから、教育の質をあげるために、学校選択制度は非常に有効なのである。いじめが起こってから、転校できるという制度では不十分で、最初から、学校の教育の質を考慮して、いじめなどにきちんと取り組んでいる学校であることを確認して入学すれば、被害者になることをかなり防ぐことができる。
日本のように、いじめの被害者が転校しても、まともに取り組まなかった学校や教師が、なんらかの不利益を被るわけではない。やっかい払いができたというような、おかしな感情をいだくかも知れない。現に、いじめによる自殺者をだした学校が、その後評判を落して廃校になったという事実は、おそらくないだろう。
いじめで転校できることは、できないよりはずっとよいが、問題を解決するシステムとはいえない。そのことが、この事例で理解できるのではないだろうか。
3 いじめに向きあわない学校管理職や教師たちは何故
この事件で最も不可解なのは、Y中学の管理職の発言である。警察が犯罪とまで認定した行為を、「いじめには至っていない」といったり、「加害者10人の未来のほうが、被害者1人の未来より重要だ」と被害者の母親に語ったり、常識では考えられないことといえる。最大限好意的に考えれば、一個の人間としては、決してそんな風には思っていなかったが、いじめ事件が起きてしまって、管理責任を問われざるをえないという立場に置かれてしまったがゆえに、苦し紛れに糊塗せざるをえないと思い込んでいるということなのだろうか。
管理職の勤務評定は教育委員会が行うから、日常的な活動を知って評価するわけではない。従って、事故や事件がなく、平穏無事であることが標準で、いじめ事件か起きると評価が低くなると言われている。もちろん、評価する人によって異なるとは思うが、どうやらそのように思われていることは確からしい。そして、研究校などになると高い評価になるということだろうか。こうした評価基準がある限り隠蔽体質と、無意味な研究校の指定を校長がとってきて、教師たちが苦しむことになるような事態を避けることはできないだろう。
事件は、どうしても起きる。起きることは前提として、その処理を評価するようにしなければならない。そして、隠蔽したり、あるいは対応もせずに悪化させたしまったときに、厳しい評価をする。適切に対応して、問題を解決したら、高い評価をする。このように評価基準を変えることはできないのだろうか。