読書ノート『知の鎖国』アイヴァン・ホール(毎日新聞)1

 まだ全部ではないが、アイヴァン・ホール『知の鎖国』なる本を読んでみた。1998年に書かれた本なので、かなり古いが、日本が停滞に陥り、数年経過した時点での日本批判であり、この批判が適切であれば、日本が停滞から抜け出すのは難しいと思わせたに違いない。事実、日本は停滞から抜け出していないので、指摘は多くあたっていたということになるのだろう。
 一言でいえば、日本の知的専門職が、外国人に対して開かれておらず、外国人を差別しているという事例がこれでもかと出てくる本である。残念ながら、翻訳がよいとはいえないので、意味が鮮明でない部分がある。また、著者の誤解もあるような気がするが、しかし、日本人としては、このような批判に対しては、率直に耳を傾けるべきであろう。
 法律家(弁護士)、報道陣、大学教師、科学者と留学生、批評家の分野で、いかに日本社会の知的閉鎖的であるかを具体的に示している。まずは、大学教師の部分について考えてみたい。

 明治前半期のお雇い外国人の時代は別として、それ以後、日本の大学が外国人の教師を徹底的といっていいほどに排除してきたことは、間違いない。戦後も、1982年に「国立又は公立の大学における外国人教員の任用に関する特別措置法」が制定されるまでは、原則、国公立大学で、正規の教授に任用することは、ほとんど不可能であった。大学には自治があるから、絶対に不可能だったわけではないか、ほとんど外国人の正規の教授は、国立大学にはいなかったのである。
 それは、「公権力の法理」と言われるもの理由にされて、別に大学教授だけではなく、小中学校の教師でも、かなり難しかったのである。
 この本では、大学の教師が扱われているので、まったく触れられていないが、教育界では比較的知られた事件がある。ある地方の国立大学を優秀な成績で卒業した在日韓国人が、教員採用試験に合格したが、文部省の圧力で合格を取り消され、臨時採用の講師として勤務せざるをえなくなった。しかし、非常に評判が高かったので、ぜひもう一度採用試験を受けるように、周囲から説得されて、再び合格したが、またまた文部省の横やりが入った。しかし、今回は、朝日新聞がそのことを取り上げ、社会問題化した。さすがに、不合格を取り消す合理的な理由を説明できなかった文部省は、妥協案として、それまではなかった「常勤講師」なる身分を設定して、外国人は、常勤講師にはなれるが、教諭には採用しないという制度をつくった。実は、それまでは、全国の採用は、外国人を平等に採用する県とまったく認めない県が半々だったのだが、このときから、全国で、採用してよいが、常勤講師という条件をつけたのである。現在もすべての県でそうなっているかは、承知していないが、だいたい現在でも有効になっていると思う。明確に差別である。
 では教諭と常勤講師は何が違うかといえは、管理職になれるかどうかである。つまり、ここに「公権力の法理」が関係してくる。以前は、公立学校の教師は公権力を行使しているので、外国人に公権力を行使させるわけにはいかないということだった。しかし、それでは世論が承知しないので、管理職にはなれないが、一般教師はよいということにして、管理職に応募できない常勤講師という身分をつくったのである。しかし、仕事の内容や賃金体系は教諭と同じである。この変化が起きたのは、1980年代であった。
 大学の教師は、小中の教師よりは、「公権力」のイメージが強いということだったのだろうか、あるいは、国立大学は文部省の監督が、直接及ぶので、「公権力の法理」によって、外国人教師を締め出すことが、より確実に行われていたわけである。しかし、様々な人たちの運動によって、少しずつ変えられていった。そして、1982年の法改正に至るわけである。以下のような内容である。
 
法律第八十九号(昭五七・九・一)1982
  ◎国立又は公立の大学における外国人教員の任用等に関する特別措置法
 (目的)
第一条 この法律は、国立又は公立の大学等において外国人を教授等に任用することができることとすることにより、大学等における教育及び研究の進展を図るとともに、学術の国際交流の推進に資することを目的とする。
 (外国人の国立又は公立の大学の教授等への任用等)
第二条 国立又は公立の大学においては、外国人(日本の国籍を有しない者をいう。以下同じ。)を教授、助教授又は講師(以下「教員」という。)に任用することができる。
2 前項の規定により任用された教員は、外国人であることを理由として、教授会その他大学の運営に関与する合議制の機関の構成員となり、その議決に加わることを妨げられるものではない。
3 第一項の規定により任用される教員の任期については、大学管理機関の定めるところによる。
 
 問題は第二条3項で、この規定によって、大学として、教員の任期を決めることができる。それを外国人に厳しく適用することも可能になるわけだ。ホール氏もその具体例をいくつか紹介している。また、あくまでも可能にしただけで、大学が積極的に外国人を採用する意志をもたなければ、実際には採用は遅々として進まないことになる。
 
 さて、ホール氏が誤解しているわけではないだろうが、全く触れていない日本の大学の事情がある。日本の大学は、特に私立大学において、外国人だけではなく、日本人も差別しているという点である。日本の私立大学は特に、多くの非常勤講師によって、必要な授業を充足している。これは、教師を十分な数雇用することが難しいことと、私立大学は、資格をとることができるようにして学生を集めている場合が多いので、専門科目以外にも、資格用の授業を余計に設定している。そのために、かなりの授業が開講されており、学生も熱心に授業をとると、200単位を超える者も少なくない。卒業に必要な単位は124が標準である。つまり、必要単位の倍近くとる学生がいるのだ。
 こうした多数の授業を揃えるために、多数の非常勤講師が採用されているが、彼らの待遇は極めて悪い。私も正規の就職の前に非常勤講師をしていたが、それは、常勤に応募するために必要だから、講師料の額などは問題にしなかった。徒弟のようなものだからそれでよかったが、非常勤講師によって生計を成り立たせている人たちにとっては、まったく割りにあわない額で、しかも、ある時期から、一年単位の臨時講師を5年継続したら、常勤として雇用する義務を大学に課したので、4年で切られる講師が続出したのだ。元々常勤で雇用する枠がないから、非常勤で授業を依頼している。従って、常勤に切り換えるわけがないのである。まったく実情を無視した文科省のやり方といえるだろう。日本人講師に対してこうだから、外国人講師に対しては、より過酷な対応になっていることは否定できないだろう。
 
 もちろん国立大学の問題は異なる。しかし、私立大学も含めて、やはり、ホール氏のいうように、閉鎖的な感覚を日本の大学がもっていたからと考えるべきだろう。私自身が大学で経験した、日本の教授たちの閉鎖性について紹介しておきたい。(つづく)

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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