ネトレプコがウクライナ侵攻に反対 ゲルギエフは?

 世界でトップクラスのソプラノ歌手アンナ・ネトレプコが、ロシアのウクライナ侵攻を非難する声明を出した。ロシア出身で、プーチンと親しいとされていた彼女は、ウクライナ侵攻が始まったとき、反対するように求められながら、「平和を望んでいる」と述べつつも、ウクライナ侵攻そのものには反対意見を述べず、芸術家に政治的発言を強要するのは間違っていると主張。欧米での重要な出演をキャンセルされていた。しかし、態度を変えたようだ。「ネトレプコがロシアのウクライナ侵略に反対、プーチン大統領との関係を否定する声明」という記事がそれを紹介している。
・ウクライナの戦争を明確に非難し、犠牲者と家族に思いを馳せる。
・いかなる政党のメンバーでもなく、ロシアの指導者と手を結んでいない。
・過去の言動に後妻される可能性があったことを認め、反省している。
・プーチンとは授賞式などで会ったことがあるだけで、ロシア政府から金銭的支援を受けていない。
・オーストリアに居住し、納税者でもある。
 以上のような内容の記事である。

 少なくとも、ネトレプコが自発的に考えて、こうした声明を発したのであれば、歓迎すべきことであり、5月から演奏会に復帰するということなので、音楽ファンとしてはよかったと思う。なんといっても、ネトレプコは、おそらく現在最高のソプラノ歌手であり、しかも、近年芸域を広げ、これまで歌わなかった役に挑戦している。スザンナを歌ったひとが、ワーグナーに挑戦している。そういう歌手が、政治家が起こした戦争のために、歌う機会を奪われるのは、なんとも残念だからだ。
 
 しかし、もう一人の、より深刻な排除を欧米音楽界からされているゲルギエフは、現在なお沈黙を保っている。プーチンと親しい関係にあるというのは、確かなようだ。南オセチアでの紛争の際に、プーチンの対応を支持し、おそらくそれ以降、プーチンとの関係が強くなったのかも知れない。オセチアが出身地のひとつであるゲルギエフにとって、テロの対象になったのが耐えがたく、紛争を収めたプーチンを尊敬するようになったようだ。
 しかし、元来、ゲルギエフは平和主義者として知られている人物で、私の推測に過ぎないが、まさかプーチンのウクライナ侵攻を心から支持しているようには思えない。では、なぜ、沈黙しているのか。ここからは、情報もないし、私の完全な推測である。
 ロシアの芸術家たちの間で、プーチン支持を表明しているひともいるし、また、批判しているひともいる。抗議の辞職をしたひとも、少ないながらいる。ボリショイ劇場の指揮者ソヒエフ氏は辞任している。ピアニストのキーシンも反対声明に署名したことが報道されている。しかし、署名したひとをみると、ほとんど外国に居住している人物で(例えば、ベルリンフィルのペトレンコ)、いわば安全地帯から声明を発しているわけである。ソヒエフ氏の辞任後の状況については、情報がないので、どうなっているのか、その後の消息がわからないが、非常に勇気のある行動だったと思う。
 さて、ゲルギエフだ。今の彼の状況は、ヒトラー政権下のフルトヴェングラーを思い出させる。ネトレプコは、個人として演奏活動をしているし、ロシアで育ち、キャリアを積んだとはいえ、近年は、ほとんど欧米での活動が中心である。居住地もオーストリアだ。だから、ウクライナ情報にも精通しているし、また、自由に見解を表明できる。しかし、ゲルギエフの場合は、なんといっても、マリンスキー劇場を背負っている存在だ。レニングラード音楽院の学生のときに、カラヤンコンクールで2位となり、カラヤンから誘いがあったがそれを断り、音楽院卒業以来、ずっとマリンスキー劇場とともに歩んできている。出発時はソ連であり、ソ連崩壊後の苦難の時期を乗り切って、世界的なオペラ、バレエの殿堂としての地位を確立した。ウィーン・フィルやミュンヘン・フィル、スカラ座の活動は、あくまでも、アルバイト的なものだろう。中心はマリンスキー劇場だ。フルトヴェングラーがベルリンフィルを棄てて、海外に亡命することは、心情的にできなかったのと、同じような気持ちが働いているに違いない。
 それだけではない。おそらく、プーチンによって、緩いとしても監視、行動制限されているのではないかと思うのである。
 ソ連時代は、音楽家やバレエダンサーの亡命が多かったが、彼らの亡命は海外に演奏旅行に出たときに、監視の目をかいくぐって、他国の大使館に逃げ込むというものだった。映画的なスリリングなものだったようだ。それは何人かの手記によって明らかにされている。ただし、そういう亡命は極めて困難だったようで、演奏家の海外公演には、かならずKGBが2,3名付き添い、徹底的に監視していた。だから、彼らから逃れつつ、大使館に駆け込むのは、非常に成功率が低かったのである。
 プーチンは、KGBの幹部だったし、現在でも側近の多くは当時の同僚だそうだ。だから、ひとの監視は習性となっているに違いない。とすれば、こうしたときに、世界的な大指揮者であるゲルギエフが、ウクライナ侵攻反対などの意見を公表されたら、プーチンの国際評価に悪影響を与える。だから、監禁のような荒療治はしなくても、ソフトに監視して、意見公表などできないように、あるいはした場合の家族への報復の脅し、マリンスキー劇場へのなんらかの対応をするという措置をしている可能性を、どうしても考えてしまうのである。
 私の推測が当たっていくとしたら、ゲルギエフは極めて困難な状況に置かれていることにる。
 ゲルギエフに対する非難が多いが、いろいろな背景を考慮する必要があるように思う。
 
 
 

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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