ジャニーズ事務所の会見

 今回も例によって、わざわざ見たわけではないが、丁度食事時だったので、けっこう長い時間、ジャニーズの会見をみていた。ここのタレントには、まったく興味がないし、今後どうなっていってもかまわないのだが、問題になっていることについては、やはり、関心をもたざるをえないし、また、単純にここにでてきたひとたちを非難するのもどうか、という感じがある。ただ、今回の一連の流れのなかで、普段とは際立って違う現象があったことについては、面白いと思った。他のひとたちには、それほど重要ではないかも知れないのだが。
 第一は、事務所から正式に依託された第三者委員会である再発防止委員会が、依託先にたいして、遠慮会釈のない厳しい報告を提出したということだ。責任者に、元検事総長の林氏をすえていたことで、事務所もかなり本気で受とめていると感じていたが、あれほど依頼主に忖度しない報告も珍しい。そして、その提言にしたがって、藤島社長が退任し、所属タレントの最年長である東山紀之氏と、タレント養成のためのジャニーズアイランドの社長をしている井ノ原快彦氏、そして弁護士が出席していた。新しい社長は、いろいろな人に頼んだが、いずれも断られ、結局、所属タレントの東山氏がやらざるをえなくなったという事情らしい。

“ジャニーズ事務所の会見” の続きを読む

アシュケナージのこと 2

 アシュケナージのソロ集が届いて、けっこうな枚数聴いてみたが、あらためて、この曲はこう弾かれるべきものだ、という確固たる安定感があることに気がつく。それは、ベートーヴェンでも、シューベルトでも、シューマンでもそうなのだ。特別に個性的な演奏ではない、というより、そういうことをまったく志向しない、ごく標準的な解釈で、充分に音楽として感動できるのだ、という姿勢だろうか。

“アシュケナージのこと 2” の続きを読む

岸田内閣は統一協会を解散させるか 本当の問題は

 統一協会の解散について、正反対の記事がでている。ひとつは、文科省が、秋に解散のための手続にはいるというもの。すると、裁判になるわけだ。それにたいして、それは間違いないが、既に解散命令の判断を裁判所はださないことで、手打ちができている、というものだ。実際のところは、まだ手続にはいっていない段階なのだから、文科省が本当にそうするかどうかもわからないし、また、裁判所に判断が委ねられた段階で、本当に、予め「手打ち」などが可能なのか。そういうことが可能であるとすれば、日本は、法治国家とはいえない。木原事件をみれば、既に法治国家など、とうに死んでいるともいえるのかも知れないが。
 統一協会の解散は、当然のことだろう。もっとも、解散といっても、日本における宗教法人としての法人格を失うだけで、宗教団体としてなくなるわけではない。オウムは、殺人事件などを多数おこしていたから、宗教団体としても解散し、別団体に分裂したが、統一協会は、本部が外国にあり、宗教団体として、どうどうとこれまでとおりの活動をするのではなかろうか。しかし、税金を収めなければならないから、活動内容が、これまでよりはずっと国家機関によって把握されることになる。また、統一教会は、韓国に対する、日本における資金収奪の機関だったが、その機能は若干低下すると思われる。それにしても、あれほど批判されたにもかかわらず、集団結婚式が行われ、日本からも多数参加したというのは、不可思議なことだ。

“岸田内閣は統一協会を解散させるか 本当の問題は” の続きを読む

五十嵐顕考察28 木村久夫をめぐって3

 晩年なぜ、あれほど木村に拘ったのか、について考えてみたいと思う。
 最初に断っておきたいのだが、五十嵐著作集の編集メンバーに参加しているが、私は五十嵐教授のゼミ生ではなく、指導教官は持田栄一教授だった。当時、ふたつのゼミは対立的であるとみられていたが、内部進学生にとっては、両方の教授に教わることは、ごく当然のことであって、対立的だったのは、大学院から入学してきたひとたちだった。だから、私が持田教授を指導教官に選んだのは、大学院ではドイツの教育制度を中心に研究しようと思っており、持田教授はドイツ留学からかえって間もない時期であり、さかんにドイツ留学の成果を著作にまとめていた時期だったからである。したがって、五十嵐教授の授業にもでていた。

“五十嵐顕考察28 木村久夫をめぐって3” の続きを読む

高校生が裁判員に?

 最近続けて高校生が裁判員になる可能性にかんする記事がでた。
「高校生も裁判員になるかも!? 熊本地裁で体験イベント」
「「死刑か無罪か」高校生も裁く時代に 法教育と受験は両立できるのか」
 
 主に、裁判員になることを前提に、どのように法教育をするかというようなテーマの記事だが、そもそも、裁判員になるとはどういうことなのか、どのような人生経験が必要なのか、というような基本的な議論が必要なのではないだろうか。アメリカの陪審員制度は、有罪か無罪か、民事であれば、原告と被告のどちらが正当かだけを決めるのだが、日本の裁判員裁判は、基本的に凶悪犯罪の刑事訴訟が対象で、多くが死刑を含む判断が要求され、そして、量刑も議論の対象になる。受験勉強を続けている高校生や、受験勉強から解放されたばかりの大学生、そして、まだ働き始めたばかりの労働者が、そうした人の人生を決定するような判断をまかせられるのか、私は大いに疑問である。

“高校生が裁判員に?” の続きを読む

五十嵐顕考察27 木村久夫をめぐって2

 昨日注文していた本『真実の「わだつみ」 学徒兵木村久夫の二通の遺書』加古陽治(東京新聞)が届いたので、加古氏の解説的文章を読んだ。解説的といっても、本書の半分をしめるかなり詳しいもので、木村の生涯と遺書をめぐる事実を解説したものだ。遺書については、従来、遺書は田辺元の著作の余白に書き込まれたものだということだったが、実は、それ以外に父親宛の手紙としての遺書があり、これまで公表されていた遺書は、そのふたつを部分的につなぎ合わせ、順序を入れ換えたものであるという事実を示し、本来の形に戻してふたつの遺書として示したのが、この本書の主旨である。遺書そのものの従来版の加古氏のいう真正版との違いは、今後精査するとして、とりあえず関心をもったのは、木村の生涯と裁判をめぐる動向、そして、その後の木村の対応についてだった。そういう点で、加古氏の解説文は非常に興味深く、五十嵐の文章を読んでいるだけではわからなかったことが、大分でていたと思う。ただ、この本は五十嵐の死後大分経ってからの出版であり、加古氏の独自取材も反映されているので、五十嵐が知らない部分があったことは、仕方ない。

“五十嵐顕考察27 木村久夫をめぐって2” の続きを読む

五十嵐顕考察26 木村久夫をめぐって

 保阪氏の著書『きけわだつみのこえの戦後史』を読んで、再度、五十嵐の木村久夫認識を整理しておく必要を感じた。(前に書いたことと重なる部分がある)保阪氏は、当然、最晩年の五十嵐の文章だけを読んで判断しているわけだが、(別にそのことを批判するつもりはない。彼は五十嵐研究をしているわけではなく、あくまでも、わだつみ会の歴史を研究しているなかで、五十嵐について触れているだけだからだ。)五十嵐は、若いころから木村に、強い関心を寄せていた。『きけわだつみのこえ』は、初版ではないようだが、かなり早い時期に読んでいる。そして、最初から木村の文章に強く注目した。他の手記は、戦死ないし戦病死したものであるが、木村だけが、BC級戦犯として刑死させられた人物だったからである。そして、五十嵐がいいつづけたことに「自分も木村の運命をたどったかも知れない」ということがあった。しかし、基本的な木村への感情は、私は「コンプレックス」だったと思う。その意識は、ずっとかわらず生涯もち続けたと考えられる。それはどういうことだったのか。
 五十嵐は、平和を語るとき、つねに、自分は、あの戦争の問題を認識することができなかった、当時最高の教育を受けていたにもかかわらず。そして、その反省から、戦前の教養のあり方を問い、政治のありかたを批判し、戦後になって、再び戦前のような政治、教育にならないように、運動を続けた。そして、この流れで木村を語ることはなかったが、木村への拘りは、この戦争反省と結びついていたと、私は考えている。「私も木村のようになる可能性があった」ということは、どういう意味だったのか。

“五十嵐顕考察26 木村久夫をめぐって” の続きを読む

ジャニーズ再発防止特別チームの報告から考える

 29日に特別チームの記者会見があり、個人的にはかなり驚いた。この特別チームは、ジャニーズ事務所がメンバーを選んで、再発防止策等の検討を依託したものだ。メンバーに林元検事総長がはいっていたことに、まず驚いた。この人は、ミスター検察といわれた気骨のひとで、安倍政権で、圧迫されていた人だ。そういう人を選んだことに、事務所もかなりまじめに取り組もうとしているのかと思ったのだが、予想をこえて、厳しい見解が示された。長期間の性加害があったこと、そして、現在の主張のジュリー氏が、認識していたことを認定し、さらに辞任を勧告したわけである。事務所が依託したチームが、これほど依託元に厳しい評定をしたというのは、かなり珍しいように思う。
 安倍元首相が、林氏の検事総長就任を阻止すべく、黒川氏の定年延長を画策したことが、なるほど、安倍氏にとっては、いやな存在だったのだろうと、改めて納得したものだ。

“ジャニーズ再発防止特別チームの報告から考える” の続きを読む

大谷の怪我は誰の責任

 大谷が肘の靱帯損傷で今期の投手としての出場が不可能になった。打者としては活躍しているので、よかったという雰囲気だが、本当に打者として出場しつづけることがよいのか、疑問も提起されている。
 大谷の身体が、あまりの酷使故の疲労が蓄積していて、危険な状態にあるのではないかとは、7月以来いわれてきた。とくに、投手として出場しているときに、途中降板することがたびたびあり、休ませるべきであるという声が強かったのは事実である。しかし、どういう契約になっているのかわからないが、報道をみる限り、大谷自身の強い希望で、試合に出続けていたようだ。そして、大谷に検査を勧めたのだが、マネージャーと大谷本人が拒否したのだ、といういいわけが経営サイドから公表され、顰蹙をかっている。ただ、経営側としては、自分で試合にでたいといい、検査を拒否したのだから、大谷の自己責任である、というのは、ごく当たり前のことではないかという感覚なのかも知れない。しかし、経営側は、選手が最高の状態でプレイできるように配慮するのが、役目のはずだから、そういう言い逃れは、やはり見苦しいし、自分たちの首を絞める行為でもある。そして、反感をかうことだけは確かだ。

“大谷の怪我は誰の責任” の続きを読む

読書ノート『きけわだつみのこえの戦後史』保阪正康

 五十嵐顕著作集のなかで、戦争責任に関する視点は、重要な部分をしめており、しかも、五十嵐のこの点での見解は、時期によって、かなりの変動があるように思われる。そして、晩年は、もっぱら『きけわだつみのこえ』のなかにある木村久夫に、かなり異様なほどのこだわりをみせていた。これをどう読むか、なぜ、あれほどのこだわりをみせたのかは、今後検討しなければならないが、一緒に著作集編集の仕事をしている同僚から、上記の本を紹介されたので、早速読んでみた。最初『文芸春秋』で発表し、何度か書き継がれ、出版後、大きな話題を呼んだという。そして、現在は文庫になっているが、私が読んだのはキンドル版である。

“読書ノート『きけわだつみのこえの戦後史』保阪正康” の続きを読む