高校授業料無償化を考える(2)

 授業料問題は、義務教育と義務教育以外、そして公立学校と私立学校の問題というふたつの異なった側面がある。日本での高校無償化は、この二つがともに重なっている問題であるが、原則的なレベルで分けたの議論は少ないように思われる。
 さて、義務教育での無償は、論理的にも、また、国民の納得という意味でも当然の措置であろう。日本の場合には、義務教育での無償が、授業料の不徴収という内容にごまかされおり、本来、というか先進国ではほぼ常識となっている学用品等の無償まで含むものになっていない。教科書は無償であるが、これは無償とすることによる国家統制の手段となっている。したがって、無償=公費の支出、だから、公費を管理する行政の管理が必要という論理の是非が問われねばならないという論点が残っている。しかし、今回はこの問題には触れない。

 今問題になっている日本における高校無償化は、義務教育以外を無償化するという問題である。無償化をもとめる教育運動からすれば、当然であるとしても、より冷静にみれば、高校は義務ではないのだから、進学しない人もいるわけであり、彼らは通常は労働をして自分で賃金を稼ぐことになる。義務ではないのに進学する者は、その教育を受ける対価を払うことは、これまた当然であるという論理が成立する。現在では、大学の無償化は、運動としても盛んに行われているわけではない。大学は、現在国立ですら、簡単に払えるような学費ではない。
 では、何故高校は無償化せよという声が、広く支持されているのか。(正確な根拠に基づくものではないが、私には、高校無償化は支持されていると思っている。)それは、事実上、義務教育といえるほどに、ほとんどの中学生が進学する事実があるからだろう。高度成長期以前のように、貧しいので就職するという人は、極めて稀であり、なんらかの理由で進学を諦めざるをえなかったひとだけが、高校に進学しないというのが、現状だろう。
 では、何故高校を義務教育にしないのだろうか。行政的な論理でいえば、義務教育にすれば、すべての進学者が入学できる定員を、行政当局が整備しなければならないのだが、それは財政的に困難であるということと、存在している私立高校の経営を圧迫するというふたつの理由があると考えられる。
 この問題を合理的に解決するには、公立と私立を同じものとして扱うということが必要であろう。実際に授業料無償化では、結果的に平等に扱う形をとっている。もちろん、元々の授業料が違うのだから、補助額が異なるので、あくまでも「結果」の平等である。しかし、公立高校では、授業料以外の納入金は、ほぼ個人的なもの(教科書代、制服、修学旅行等々)であるが、私立学校の場合には、多くの場合、施設費などを徴収しており、それはかなりの額になっている。学校は、設置主体がその費用を負担するのが原則であり、(公立小中学校以外は)授業料徴収は認められているが、公立高校の場合には、設備関係は自治体が負担する。当然生徒への負担はほとんどない。しかし、私立学校の場合には、施設設備の費用を、国庫補助があるとしても、到底全額の補助にはならないから、かなりの部分を生徒から徴収しなければならない。結局、授業料を無償にしても、公私の負担の差はまだまだ存在するのである。
 事実上の義務教育だから、公立と私立の授業料を「ともに」無償化するというのであれば、施設費なども平等にすることが当然求められるはずである。(つづく)

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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