高校授業料無償化を考える(3)

 私立学校と公立学校は、本質的に違うものなのだろうか。法的には明確に区別されているけれども、教育の実態はどうなのだろうか、と考えると、私には、本質的な差はないとしか思えない。私立学校の教育は確かに多様である。しかし、公立学校も同質などとはとうていいえない。通学区によって通う学校が規定されている公立の小中学校でも、その差はかなり大きいのである。通学区を指定して、通学する学校を選択できないようにしている理屈は、教育の水準を一定に保つことによって、どの学校に通っても同じ教育が受けられる、というのがあるが、そのようなことを信じているひとはいないだろう。

 公立の小中学校であっても、校長の資質や姿勢によって、学校の雰囲気はかなり相違するのである。また地域の雰囲気や教育委員会の方針などによってもかわる。しかし、逆に同じ地域であっても、となりの学校同士の雰囲気がまったく違うということもめずらしくない。高校になれば、学力の格差が学校ごとに大きく異なることは、公立でも私立でも同じである。違いを考えれば、私立学校の場合には、道徳教育を中心として、宗教的な教育が許されることと、教師の定期的な転任がないことくらいではないだろうか。宗教的教育が許されるといっても、日本においては、かなり顕著な宗教教育が実施されている私立高校は非常に少ない。私が務めていた大学の附属高校は仏教系の学校とされていたが、とりあえず仏教を教える授業はあるようだが、それが宗教的影響を生徒たちに与えているとはとうてい思えないのである。むしろ、公立学校で、行政側が行わせたい「愛国心教育」のほうが、よほど宗教的色彩が強いともいえる。もちろん、行政の要請による愛国心教育を熱心にやっている公立の学校は、現在ではあまりみかけないのだが。
 だが、財政的にみると、私学助成制度が実現するまでは、公立学校と私立学校への行政による財政的な関わりはまったくちがっていた。憲法89条の、公金を宗教上の組織・団体の使用、便益、維持のために支出してはならない、という規定によって、私立学校は宗教教育を行うことが許可されていたために、財政補助が行われていなかったのである。しかし、ほとんどの私立学校は宗教的な学校ではなかったし、宗教的な教育をする学校といっても、それは極めて少ない一部の、とくに道徳教育に代わってであって、他の教科目については、学習指導要領に則った教育をしているのだから、公立学校とやっていることはかわりがない。私学としては、存立にかかわることであるし、当然私学に通っている生徒やその親にとっても、公正でないと感じられることだった。そして、運動の成果として、1975年に私学助成が実施されるようになったのだが、そのさい、同じ憲法89条の「公の支配に属しない」団体への公金支出の禁止の文言を逆手にとり、私立学校は、公の支配に属しているではないか、ということが、補助可能の論理となったのである。
 こうして、私学に対する補助が始まったが、現在の制度では当然だが、全体の運営経費に占める公的資金、授業料の割合は、圧倒的に、公立学校が公的資金の割合が高く、私立学校は低い。私が務めていた私立大学では、公的補助の割合は全体の2割弱で、学生の負担が8割であるといわれていたが、だいたい他の大学でも同じようなものだろう。そして、国立ではその割合が逆転するのである。高校でも同様の傾向があると思われる。
 おそらく、多くのひとは、公立学校は公的団体、つまり地方自治体や国家(現在では独立法人になっているが、実態は国立といえる。)が設置するのだから、公的資金で運営され、私学は、私人が設置するのだから、それを設置者と利用者が負担するのが当然であると考えているに違いない。法的にいえば、「設置者負担主義」である。
 しかし、社会全体として学校という制度を考えてみた場合、それがほんとうに社会全体の利益となるだろうかと考え直してみる必要はないのだろうか。(つづく)

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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