高校無償化を考える(1)

 高校授業料の実質無償化が進行している。2025年度は12万弱の補助が全世帯で受けられ、2026年度からは私立学校の場合には、増額され、全国の私学の平均額が支給されるようになり、公立高校も私立高校も実質無償化が実現するということになる。 これは、いわゆる民主的教育運動の悲願ともいえるものであり、そこでは、教育の無償化はほとんど無条件にもとめられることがらであったともいえる。
 しかし、問題はそう単純ではないのである。
 現在、高校の無償化について、大きな批判が公立高校からでている。それは、無償化されていたら、それまで公立高校に進学していたひとたちから、私立高校にいってしまう生徒が少なからず出てくる、つまり公立高校の地盤沈下になってしまい、それは公教育の衰退につながるではないか、という批判であろう。公立高校から私立高校に応募が移行することは、事実であろう。
 実際に、公立学校と私立学校の授業料がともに無料になっているのはオランダの義務教育である。オランダは1917年に、憲法で私立学校と公立学校の財政的平等が規定された。したがって、私立学校と公立学校で、授業料にかかわる差がないのである。義務教育ではともに無償であるし、義務教育後についても、授業料にほとんど差がない。義務教育後の学校については、教育条件整備に多額の費用がかかるので、やはり公立学校が多いのだが、義務教育の学校では、7割が私立であるとされる。この憲法の前は、公立学校は無償だったが、私立学校では授業料をとっていたので、やはり公立学校が中心だった。しかし、憲法成立後、次第に私立学校が生徒を集めるようになり、それは現在でも続いているのである。
 同じことは、日本でおきても不思議ではない。というより、無償化が全国より先んじて進められた大阪では、実際に公立学校ではなく、私立を選択する生徒が増えているといわれている。それは、一般的な教育原則にそった教育をする公立とはちがって、私立学校の場合には、教育的特色をだそうとするし、また、公立より高い授業料をとってなお生徒を惹きつける必要があるから、指導も熱心になるという雰囲気があるとされる。特色に惹かれる場合もあるだろうし、また、熱心さを重視する場合もあるだろう。とにか、授業料が安いという「特典」がなくなるだけ、無償化されれば、公立に不利な状況が生れることは必然といえるだろう。

 ところで、私は、この問題はもっと広く学校制度全般にわたって考察する必要があると思うのである。
 というのは、義務教育段階では、私立学校は高い授業料をとることが、まったく問題視されないのに、なぜ義務教育ではない高校で、授業料の無償化を実現するのか。しかも私立学校をふくめて。
 制度上の理由は、明確である。
 戦前、義務教育を国民全体に浸透させることは、産業上、国防上必要であると考えた政府が、義務教育(小学校)は公立学校として、学齢児童全体が入れるだけの数を確保した。それは政策上必須だった。だから、私立学校は例外だったから、授業料をとることは当たり前で、授業料を払えるものだけが通うことができたとしても、それは政策的には問題ではなかったし、小学校を設立する側にとっても不満だったわけではない。そして、私立の小学校は極めて例外的存在だった。
 戦後、中学校が義務化されても、しばらくはその構造は引き継がれた。その構造が変化したのは、高校の進学率が向上し、義務教育修了で学業を終える人は少なくなり、ほとんどが高校に進学するようになったからである。しかし、自治体は、義務教育学校ではないから、進学者全体を受け入れるだけの公立高校を設置する義務はないから、進学率が高くなるにしたがって、不本意に私立高校にいかざるをえない状況が恒常化した。小中学校では、私立にいくものは、公立があるのに、わざわざ授業料をはらっても私立にいくのだから、社会的に問題にならかった。しかし、高校は、義務教育ではないにしても、高校にいかなければ社会的に不利になる状況が生れているし、また、進学率が90%の後半になれば、義務教育に近いものがある。いかなければならないから行くという意識である。にもかかわらず、ほんとうは公立学校にいきたいのに、定員が少ないから、私立に行かざるをえない、それなのに、高い授業料を払わねばならないのは不公平ではないか、というわけである。この理屈は、もちもん、合理性があるし、納得できるものである。だが、制度論としては、やはり筋が通らない面がある。(つづく)

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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