アシュケナージのこと

 今年はこれまでまったくCDを購入しなかったのだが、アシュケナージの室内楽総集編がでることを知って、今年最初のCDの買い物として、アシュケナージのボックスを注文した。ソロと室内楽だ。以前協奏曲がでていて、これは購入していて、けっこう聴いていたのだが、まだ注文の品がこないので、いくつか協奏曲を聴いてみた。ラフマニノフの4曲とパガニーニ狂詩曲がはいっている2枚を聴いた。バックはハイティンクとコンセルト・ヘボーだが、これまで聴いていた他の演奏とはちょっと違う感じがした。ゆったりと穏やかで、余裕がある感じというところか。
 アシュケナージとハイティンクは、他にも共演していて、ベートーヴェンの協奏曲の全曲映像版もはいっている。アシュケナージがかなり若いころのものだが、すでに大家の風格がある。

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思い出深い演奏会 マイナスイメージで2

 前にも書いたことがあるのだが、やはり非常に記憶に残っている演奏会だ。都響の定期演奏会で、指揮が常任の渡辺暁生、バイオリンのソロが石川静でブラームスの協奏曲をやった。このときの印象が強烈なので、ほかのメインプロに何をやったか、まったく覚えていない。
 出たしはごく普通に、安心して聴ける感じで進行していた。ところが、石川のソロが入ってきたところから、まったく違う音楽をやっているのかと思うほど、雰囲気が変ってしまった。渡辺は普通かあるいはちょっと速めのテンポをとっていたのだが、石川は、かなり遅めのテンポをずっと維持している。チャイコフスキーのコンチェルトは、ソロが入ってくるとき、思いっきり遅く演奏し、序奏的な部分がおわると、テンポを通常に戻すような演奏が多いが、ブラームスは、そういうやり方をあまりしない。むしろ、前に書いたヌヴーなどは、勢いよく入ってきて、そのままエネルギーを保持するような弾き方をする。しかし、石川は、とにかく遅めのテンポではいってきて、主題を奏する部分になっても、そのままの、かなりの遅めのままだ。ところが、ソロバイオリンがなく、オーケストラだけの部分になると、また渡辺テンポにもどって、そんな遅く、まだるっこしいのは嫌だ、というような雰囲気で、さっと済まして、再びソロが入ると、遅いテンポにもどる。石川が弾いている部分は、ゆっくり目というよりは、かなり遅いので、普通の演奏よりは、かなり長い時間をかけて、第一楽章が終わり、その最後の音が消えた瞬間に、一切にため息が漏れたのである。どうなるのことか、みな音楽を聴くより、ふたりの意地の張り合いがどうなるのか、破綻しないのか、はらはらしていたという雰囲気が、そのため息ではっきりと感じられた。

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木原問題と文春の思惑のずれ?

 最近の動きをみると、『週刊文春』が当初目論んだことと、展開が変ってきて、文春としても今後の展開をどうするか、迷っているのではないかと思われるのである。当初の目論見とは、当然木原氏のスキャンダルの追求であり、それは、おそらく、自民党内の反岸田勢力と結びついていたと考えられる。当時の捜査状況を正確に把握していた杉田氏と二階、菅氏が、岸田政権への打撃をあたえるために、捜査資料を文春に提供し、文春が裏付け取材をへて、報道に踏み切った。そして、それはかなりの効果をあげ、おそらく木原氏は文春の攻撃に耐えられず、辞任の意思をかなり強くしたところまで追い詰められた。
 しかし、事態は文春が想定した部分以外に波及し、文春は、岸田政権より協力が敵対勢力をうみ出してしまったのが現状なのではないだろうか。端的にいってそれは警察である。

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マイナンバー・カード再論 老人はみなデジタル音痴なわけではない

 文春オンラインで、紙の健康保険証をマイナンバー・カードに一体化して、紙を廃止するのは、老人ファシズムであり、また、リベラルのラッダイト運動であるという批判を展開している。紙の保険証問題については、前にも書いたが、こういう議論がでているので、反論せざるをえない。 “マイナンバー・カード再論 老人はみなデジタル音痴なわけではない” の続きを読む

処理水海洋放出 最終的には「人間」に対する信頼だ

 ついに、政府は、福島原発における処理水の海洋放出に踏み切った。もちろん、大きな論議を呼んでおり、とくに福島の漁業関係者の反対は強い。政府や東電がいくら、トリチウムはそれほど危険ではない、そして、規準の40分の1まで希釈している、だから、安全だ、国際規準のうえで問題ないといっても、原発は安全だという安全神話を振りまいてきたひとたちの後継者がいっているのだから、最終的な信頼がないわけである。だから、結局、水掛け論になって、落ち着きどころがない。「結局金だろう」といって、非難をあびた大臣がかつていたが、そんな大臣のいうことを信頼するはずもない。
 結局は、相手を信頼できるという問題に帰着するのではないだろうか。
 
 私自身は、これだけ大量の処理水がたまり、たしかに、規準という観点からみれば、危険とはいえないまでに(ほんとうにそのように処理されているならば)処理されているならば、いつかは放出せざるをえないことは、認めざるをえないし、それは結局海洋放出になるだろう。国際機関もそれを許容しているわけだ。

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文春と警察の全面対決

 一週間間があいた(前号はお盆のための二週間分合併号だった)『週刊文春』の最新号を早速読んだ。前回は、木原氏のデリヘル問題だったので、この事件の軸である警察官による犯罪の、警察機構あげての隠蔽という側面から、軌道修正を図ったのか、と訝しく思った点もあったのだが、やはり、真っ向から警察と対決するという記事構成をしてきた。あくまでも、一週刊誌の記事だから、絶対に正しいと受けとっているわけではないが、ただ、私自身、文春記者の取材をうけたことがある経験から、『週刊文春』の取材の徹底度については、充分に認めているので、いいかげんなことを書いているとは思わない。私がうけた取材というのは、私のかつての職場(定年退職間近だったのだが)で、ある事件をおこした教授がおり、すぐに、我が家に記者が取材にやってきたのだ。職場が、この件について取材に応じないように、という指示がでていたので、特段話しはしなかったのだが、とにかく、すぐに自宅までやってくるその取材の徹底度に感心したことは確かだ。「すごいですね、なぜ、ここがわかってのですか?」と聞いたら、「われわれもプロですから」と答えていたものだ。そして、職場から、話さないようにという指示が出ているのだ、と説明したら、了解してくれた。だから、無理な取材をして、取材源が応じていないのに、無理矢理こじつけで書いているとは、思えないのである。そして、文春の記事と、警察の発表していることとを比較検討すれば、警察の発表の「真実味のないこと」は歴然としている。

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熱中症で体育の授業後死亡

 北海道で、小2の女子が体育の授業のあと、教室に帰る途中で倒れ、死亡したという。「熱中症疑い “小2女児” が死亡 体育の授業後に倒れる… 北海道伊達市 最高気温33.5℃ 統計開始以来で一番の暑さ」
 近年、文科省の指導なのか、授業日数を確保するために、かなり無理な日程が組まれることが多い。北海道などは冬の休みを多くするために、8月から授業を開始するのは、以前からだったが、東京などでも、そういう学校が多くなっている。ところが、夏の暑さは、以前とは比較にならないくらい酷くなっており、この事故が起きたときにも統計開始以来の暑さだったという。近年は、教室にはエアコンが設置されていることが多くなっているから、(北海道の学校はどうなのかわからないが)教室での通常の授業は、特別問題ないとしても、体育の授業は、まったくの炎暑のなかで行われることになる。体育館は直接の日差しがないだけましかも知れないが、熱いことにかわりはないだろう。

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札幌殺人事件の子育てを考える2 責任

 今回は、「責任」の問題である。

 サドベリバレイ校の教育の根幹に次の原則がある。
・何をするかは自分で決める。
・決めたことを実行する際に、スタッフは求められれば、可能な援助をする。
・その結果について、本人が責任を負う。
 つまり、簡単にいえば、何をするのも自由だし、援助もするが、その結果については、本人が引き受けるということだ。
 実は、日本の教育全般に、非常に欠けているのが、この本人責任である。本人が明確に結果を負うのは、成績評価と入試が主なものだろう。だから、入試には必死になるといえる。しかし、入試も全入時代になっているから、その面での責任もあいまいになっていると考えざるをえない。 “札幌殺人事件の子育てを考える2 責任” の続きを読む

札幌殺人事件の子育てを考える1

 札幌の殺人事件は、動機をめぐって日々報道が続いているが、私が注目するのは、やはり、この父と母の子育てである。報道によれば、他に子どもはいないようだから、一人っ子の娘を育てていたことになる。そして、娘は、30近い年齢になっても、まったく定職もなく、なにか決まったことをするでもなく、親と同居していたという、少し前によくいわれた表現だとパラサイトということになる。

 父親は評判の医師だったわけだから、経済的にはまったく不自由ない生活をしてきたのだろう。そして、経済的だけではなく、生活全体において、娘は自由に、自分の意思を通すことができたということらしい。 “札幌殺人事件の子育てを考える1” の続きを読む

インドと日本の男尊女卑の形

 「“女児が生まれる前に殺される”インドで、家父長制と闘う父親が社会を変える」という記事がヤフーニュースに掲載されている。元の記事COURRiER掲載で、ニューヨーク・タイムズがさらに元記事になっている。
https://courrier.jp/cj/335533/?utm_source=yahoonews&utm_medium=related&utm_campaign=335533&utm_content=society

 インド社会では、男尊女卑の風習がいまでも強く残っており、妊娠中の胎児が女の子だとわかると、中絶してしまう場合が少なくないという。そういうなかで、ある男性の子どもが誕生したとき、子どもをとりあげた看護婦が、非常に申し訳なさそうに、暗い表情で「女の子です」と父親に告げたのだそうだ。その言葉をきいて、男性は切れたと書いてある。そして、そのとき「ご自身のことも、恥だと思うのですか?」と聞いたそうだ。 “インドと日本の男尊女卑の形” の続きを読む