矢内原忠雄・丸山真男・五十嵐顕1

 私はこの3年間、大学時代の教授であった五十嵐顕先生(以下尊称略)の、最初著作集、そして現在は全集の編集に携わってきた。大学院時代の仲間が編集委員となっている。私自身は、五十嵐の指導性ではなかったし、また、親しく接したこともないのだが、とりあえず編集委員に加わることになった。
 そして、けっこう多数の五十嵐論をここに書いてきた。まだ全集が完成していないので、なんともいえないのだが、収集された文章はすべて私がOCRにかけたり、直接打ち込んだりしてテキストファイル化してきた。したがって、すべての文章を読んだことになる。
 そうしてみると、やはりまとまった五十嵐顕論を書きたいという気持ちはあるのだが、あることに迷っている。それは、五十嵐論とは別に、矢内原忠雄と丸山真男を比較検討する文章を大分書いたので、そこに五十嵐顕を加えて、3人の検討をするという案もある。正直なところ、矢内原忠雄・丸山真男と五十嵐顕では、その有名の度合いや研究的業績においてかなりの相違があるのだが、いずれも特異知識人としての歩みをし、大きな影響を与えたという点で共通している一方、知識人としてのあり方が非常に異なっている。その異なっていることが、考察のよい素材だと思うのである。そして、この3人を関係づけて論じることに、歴史的意味があるようにも思われる。
 まず、五十嵐は若いころはさておき、後年になって、自分の精神的立脚点に矢内原忠雄をおいていたといえるほど、矢内原に拘っていた。ところが、丸山真男については、まったく論及していない。厖大な文章のなかで、丸山真男という名前はまったく出てこないのである。五十嵐の論述からみて、丸山がまったく登場しないというのも、不思議なくらいである。他方、丸山の優秀な弟子で、教育学研究者として多くの業績を残した堀尾輝久に関しては、大きな影響を与えられ、また反省を迫られた人物として評価している。堀尾理論の構造は、私は丸山真男の影響がもっとも強いと思っているから、五十嵐が丸山に言及しないのは、私には不思議なのである。
 それに対して、丸山真男は矢内原忠雄について、ほとんど言及していない。丸山の著作集の総索引に、矢内原忠雄は2カ所ほどのっているが、それは、矢内原事件があったという程度の歴史叙述のなかで名前が登場する程度であって、矢内原を論じたことはまったくないといえる。これも、丸山は、矢内原の信仰上の教師ともいうべき内村鑑三については、何度か論文を書いているのだから、内村の役割を引き継いだといえる矢内原に言及しないのも、また不思議に思われるのである。矢内原は、二人よりもずっと年上だから、専門も違う彼らについて触れないことはとくに不思議ではない。
 3人を比較して考察する場合、最大のテーマは第二次世界大戦、日本としては日中戦争と太平洋戦争との関わりと、戦後において、戦前をどう論じたか、ということになる。簡単に整理しておくと、
・矢内原は軍部・戦争に明確に反対して、東大教授の地位を追われ、その後は個人雑誌を発行して、キリスト教徒として、抵抗の姿勢をいささかもまげなかった。
・丸山は、東大法学部の助手から助教授として、象牙の塔の生活をしていたといえる。しかし、津田左右吉を講師として招いたときに、右翼の妨害にあい、津田を守る役割を果たしている。そして、2度徴兵され、志願すれば自動的に将校扱いになったが、みずから一兵卒となり、逆に過酷な苛めにあった。そして、広島駐留のときに、原爆投下に遭遇している。建物の関係で大きな被害を受けなかったが、その後調査などで市街地を歩いたことが、戦後の結核発症の原因となったと考えられている。
・五十嵐は、東大の繰り上げ卒業後に招集され、将校に志願し、豊橋の訓練校を最優秀の成績で終え、その後、教育担当として戦時中を過ごしている。戦争終了後約1年弱捕虜としてインドネシアで過ごした。
 このように、まったく違う戦時中の過ごし方であった。そこには、当然思想、環境、年代等々の相違があるが、いろいろと考察してみたいと思うのである。(つづく)

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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