矢内原忠雄・丸山真男・五十嵐顕2

 過去に書いた矢内原忠雄・丸山真男論のテーマにそって、五十嵐顕について追記のような形で当面書いていくことにした。今回は、東大の教官になった事情である。
 簡単に前述の二人をまとめておくと、矢内原は、民間企業に務め四国の事務所で働いていたときに、新渡戸稲造が国際連盟の事務局次長になって東大をやめたので、その後任として迎えられたが、民間企業勤めだったために業績はまったくなく、友人への手紙を唯一の「業績」として助教授に採用された。大学生時代の優秀さを友人や教授たちが認めていたための、特異な採用だった。丸山は、学生のときに助手に応募して採用され、南原繁の下で新設の日本政治思想史講座の担当者となった。丸山はオーソドックスな道を歩み、矢内原は極めて異例の採用だった。
 五十嵐はどうだったろうか。

 五十嵐は、昭和16年の繰り上げ卒業組で、就職することなく招集されて、将校に志願し、首席で養成学校を卒業、戦地では兵站、そして教育担当であった。1年弱の捕虜生活のあと1946年に帰国したが、しばらくは浪人生活をしていた。そして、東大に顔をだしたとき、宮坂助手から教育研修所の宗像誠也が助手を必要としているという情報をえて、宗像と面談、最初は嘱託として、後に所員として採用された。そして、1951年に東大の非常勤講師として、教育財政学の講義を担当、翌年、助教授に採用されて、1977年の定年まで教育財政学担当の教授として務めあげた。
 五十嵐の事例は、前記二人とはやはりかなり共通している面と異なった面があった。
 五十嵐の経歴や過去について書いた文章をみると、研究者をめざしていたようには思われない。大学入学時は英文科であったが、つまらないと思って辞め、教育学科に再入学した。元々、研究者をめざしていれば、こうした進路変更はあまり考えられない。また、帰国して、東大に顔をだすまで数ヶ月かかっている。研究者を意識していれば、すぐにでも東大に出かけただろう。宗像に会いにいって、「ボード・オブ・エデュケーション」について調べてほしいといわれたが、その意味がわからなかったという。教育学科の学生としても、それほど熱をいれて学んだと思われないのである。
 しかし、英語は得意であったことも幸いして、アメリカの教育行政関係の文献を猛烈に読みあさり、半年後に見事な報告書を書き上げた。そして、その後東大に移るまで、アメリカを中心とした調査に邁進し、大量の報告書を発表している。
 実は、私は、長年、五十嵐がどのような業績で東大に採用されたのか、疑問をもっていた。というのは、この時期の大量の報告書・論文、そして、東大に赴任してから数年間の優れた研究業績を、五十嵐は自身の著作にまったくいれなかったから、私たちのような後年の学生たちには、採用前の文章はほとんど読むことができなかったのである。だから、どのような業績があったのか、知ることが難しかった。このように、1950年代半ばあたりまでの業績をすっかりきってしまったような行為は、五十嵐顕という研究者を考察する上でも見逃せないことである。
 さて、東大に1952年に教育財政学の担当者として赴任することになるが、この点についても、いろいろと考えなければならないことがある。
 最大の問題は、この採用が五十嵐にとって幸福なものだったのかという問題である。先に東大に転出していた宗像に、助教授としてくるように誘われたとき、五十嵐はかなり強く抵抗し、このまま国立教育研究所(前身が研修所)にいたいとごねたといわれている。私はこの抵抗は、本心からのものだったと思うのである。矢内原は、尊敬する新渡戸の後任であったし、丸山は、西欧と日本の違いはあっても、政治思想史の担当であったから、自分の望んでいる分野との齟齬はなかった。しかし、五十嵐は、「教育財政学」を望んでいなかったのではないか。
 五十嵐は小学校を終えたとき、中学ではなく、商業専門学校に進んだ。家が貧しかったので、はやく世にでたほうがいいという母親の判断だったという。しかし、商業専門学校で学んでも、肝心の商業関係の科目は、まったく好きになれなかったようで、赤点をたくさんとったと書いている。財政学は商業関連の知識はやはり前提となるから、財政学の担当と聞いて躊躇したことは、ごく自然な反応だったのではなかろうか。
 そして、この躊躇は東大赴任後もさまざまな面に現われた。
 極めて真面目な五十嵐は、赴任後懸命に教育財政学の歴史的研究に打ち込んだ。そして、「公教育財政における公共性の矛盾」という非常に優れた論文を2回にわたって学会誌に発表している。しかし、それは未完かつ書籍としては未刊に終わった。しかし、そうした教育財政学としての研究は、10年間で終了し、その後は教育財政を扱っても、哲学的な考察に向うようになる。そして、生涯、教育財政という語句を含んだ著作を出版することはなかった。
 つぎに、教育財政学を核とする学会活動をすることがまったくなかったことである。講座制をとっている東大において、実は「教育財政学」という講座は、文部省によって認められていなかった。何度も申請したが拒否されたとされる。しかし、五十嵐はそれに対抗して、講座として認めさせるための具体的行動をとった形跡がない。
 教育財政学の教科書を出版し、友人たちに、所属の大学で教育財政学の講義を設置させ、「教育財政学会」を組織して、定期的に大会を開き、そこから、教育財政学講座を認めさせる。こうした活動を活発に行うことが、講座設置のためには必要だったろう。だが、五十嵐はそれをしなかった。もちろん、能力がなかったからではなく、その意志がなかったのではないだろうか。
 こうした五十嵐の就職は、やはり、日本の教育学、教育財政学の発展にとって、好ましいことではなかった。そして五十嵐にとっても、他の講座や科目の担当者としてふさわしい分野があったはずであるから。

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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