五十嵐顕考察28 木村久夫をめぐって3

 晩年なぜ、あれほど木村に拘ったのか、について考えてみたいと思う。
 最初に断っておきたいのだが、五十嵐著作集の編集メンバーに参加しているが、私は五十嵐教授のゼミ生ではなく、指導教官は持田栄一教授だった。当時、ふたつのゼミは対立的であるとみられていたが、内部進学生にとっては、両方の教授に教わることは、ごく当然のことであって、対立的だったのは、大学院から入学してきたひとたちだった。だから、私が持田教授を指導教官に選んだのは、大学院ではドイツの教育制度を中心に研究しようと思っており、持田教授はドイツ留学からかえって間もない時期であり、さかんにドイツ留学の成果を著作にまとめていた時期だったからである。したがって、五十嵐教授の授業にもでていた。

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高校生が裁判員に?

 最近続けて高校生が裁判員になる可能性にかんする記事がでた。
「高校生も裁判員になるかも!? 熊本地裁で体験イベント」
「「死刑か無罪か」高校生も裁く時代に 法教育と受験は両立できるのか」
 
 主に、裁判員になることを前提に、どのように法教育をするかというようなテーマの記事だが、そもそも、裁判員になるとはどういうことなのか、どのような人生経験が必要なのか、というような基本的な議論が必要なのではないだろうか。アメリカの陪審員制度は、有罪か無罪か、民事であれば、原告と被告のどちらが正当かだけを決めるのだが、日本の裁判員裁判は、基本的に凶悪犯罪の刑事訴訟が対象で、多くが死刑を含む判断が要求され、そして、量刑も議論の対象になる。受験勉強を続けている高校生や、受験勉強から解放されたばかりの大学生、そして、まだ働き始めたばかりの労働者が、そうした人の人生を決定するような判断をまかせられるのか、私は大いに疑問である。

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五十嵐顕考察27 木村久夫をめぐって2

 昨日注文していた本『真実の「わだつみ」 学徒兵木村久夫の二通の遺書』加古陽治(東京新聞)が届いたので、加古氏の解説的文章を読んだ。解説的といっても、本書の半分をしめるかなり詳しいもので、木村の生涯と遺書をめぐる事実を解説したものだ。遺書については、従来、遺書は田辺元の著作の余白に書き込まれたものだということだったが、実は、それ以外に父親宛の手紙としての遺書があり、これまで公表されていた遺書は、そのふたつを部分的につなぎ合わせ、順序を入れ換えたものであるという事実を示し、本来の形に戻してふたつの遺書として示したのが、この本書の主旨である。遺書そのものの従来版の加古氏のいう真正版との違いは、今後精査するとして、とりあえず関心をもったのは、木村の生涯と裁判をめぐる動向、そして、その後の木村の対応についてだった。そういう点で、加古氏の解説文は非常に興味深く、五十嵐の文章を読んでいるだけではわからなかったことが、大分でていたと思う。ただ、この本は五十嵐の死後大分経ってからの出版であり、加古氏の独自取材も反映されているので、五十嵐が知らない部分があったことは、仕方ない。

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五十嵐顕考察26 木村久夫をめぐって

 保阪氏の著書『きけわだつみのこえの戦後史』を読んで、再度、五十嵐の木村久夫認識を整理しておく必要を感じた。(前に書いたことと重なる部分がある)保阪氏は、当然、最晩年の五十嵐の文章だけを読んで判断しているわけだが、(別にそのことを批判するつもりはない。彼は五十嵐研究をしているわけではなく、あくまでも、わだつみ会の歴史を研究しているなかで、五十嵐について触れているだけだからだ。)五十嵐は、若いころから木村に、強い関心を寄せていた。『きけわだつみのこえ』は、初版ではないようだが、かなり早い時期に読んでいる。そして、最初から木村の文章に強く注目した。他の手記は、戦死ないし戦病死したものであるが、木村だけが、BC級戦犯として刑死させられた人物だったからである。そして、五十嵐がいいつづけたことに「自分も木村の運命をたどったかも知れない」ということがあった。しかし、基本的な木村への感情は、私は「コンプレックス」だったと思う。その意識は、ずっとかわらず生涯もち続けたと考えられる。それはどういうことだったのか。
 五十嵐は、平和を語るとき、つねに、自分は、あの戦争の問題を認識することができなかった、当時最高の教育を受けていたにもかかわらず。そして、その反省から、戦前の教養のあり方を問い、政治のありかたを批判し、戦後になって、再び戦前のような政治、教育にならないように、運動を続けた。そして、この流れで木村を語ることはなかったが、木村への拘りは、この戦争反省と結びついていたと、私は考えている。「私も木村のようになる可能性があった」ということは、どういう意味だったのか。

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ジャニーズ再発防止特別チームの報告から考える

 29日に特別チームの記者会見があり、個人的にはかなり驚いた。この特別チームは、ジャニーズ事務所がメンバーを選んで、再発防止策等の検討を依託したものだ。メンバーに林元検事総長がはいっていたことに、まず驚いた。この人は、ミスター検察といわれた気骨のひとで、安倍政権で、圧迫されていた人だ。そういう人を選んだことに、事務所もかなりまじめに取り組もうとしているのかと思ったのだが、予想をこえて、厳しい見解が示された。長期間の性加害があったこと、そして、現在の主張のジュリー氏が、認識していたことを認定し、さらに辞任を勧告したわけである。事務所が依託したチームが、これほど依託元に厳しい評定をしたというのは、かなり珍しいように思う。
 安倍元首相が、林氏の検事総長就任を阻止すべく、黒川氏の定年延長を画策したことが、なるほど、安倍氏にとっては、いやな存在だったのだろうと、改めて納得したものだ。

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大谷の怪我は誰の責任

 大谷が肘の靱帯損傷で今期の投手としての出場が不可能になった。打者としては活躍しているので、よかったという雰囲気だが、本当に打者として出場しつづけることがよいのか、疑問も提起されている。
 大谷の身体が、あまりの酷使故の疲労が蓄積していて、危険な状態にあるのではないかとは、7月以来いわれてきた。とくに、投手として出場しているときに、途中降板することがたびたびあり、休ませるべきであるという声が強かったのは事実である。しかし、どういう契約になっているのかわからないが、報道をみる限り、大谷自身の強い希望で、試合に出続けていたようだ。そして、大谷に検査を勧めたのだが、マネージャーと大谷本人が拒否したのだ、といういいわけが経営サイドから公表され、顰蹙をかっている。ただ、経営側としては、自分で試合にでたいといい、検査を拒否したのだから、大谷の自己責任である、というのは、ごく当たり前のことではないかという感覚なのかも知れない。しかし、経営側は、選手が最高の状態でプレイできるように配慮するのが、役目のはずだから、そういう言い逃れは、やはり見苦しいし、自分たちの首を絞める行為でもある。そして、反感をかうことだけは確かだ。

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読書ノート『きけわだつみのこえの戦後史』保阪正康

 五十嵐顕著作集のなかで、戦争責任に関する視点は、重要な部分をしめており、しかも、五十嵐のこの点での見解は、時期によって、かなりの変動があるように思われる。そして、晩年は、もっぱら『きけわだつみのこえ』のなかにある木村久夫に、かなり異様なほどのこだわりをみせていた。これをどう読むか、なぜ、あれほどのこだわりをみせたのかは、今後検討しなければならないが、一緒に著作集編集の仕事をしている同僚から、上記の本を紹介されたので、早速読んでみた。最初『文芸春秋』で発表し、何度か書き継がれ、出版後、大きな話題を呼んだという。そして、現在は文庫になっているが、私が読んだのはキンドル版である。

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アシュケナージのこと

 今年はこれまでまったくCDを購入しなかったのだが、アシュケナージの室内楽総集編がでることを知って、今年最初のCDの買い物として、アシュケナージのボックスを注文した。ソロと室内楽だ。以前協奏曲がでていて、これは購入していて、けっこう聴いていたのだが、まだ注文の品がこないので、いくつか協奏曲を聴いてみた。ラフマニノフの4曲とパガニーニ狂詩曲がはいっている2枚を聴いた。バックはハイティンクとコンセルト・ヘボーだが、これまで聴いていた他の演奏とはちょっと違う感じがした。ゆったりと穏やかで、余裕がある感じというところか。
 アシュケナージとハイティンクは、他にも共演していて、ベートーヴェンの協奏曲の全曲映像版もはいっている。アシュケナージがかなり若いころのものだが、すでに大家の風格がある。

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思い出深い演奏会 マイナスイメージで2

 前にも書いたことがあるのだが、やはり非常に記憶に残っている演奏会だ。都響の定期演奏会で、指揮が常任の渡辺暁生、バイオリンのソロが石川静でブラームスの協奏曲をやった。このときの印象が強烈なので、ほかのメインプロに何をやったか、まったく覚えていない。
 出たしはごく普通に、安心して聴ける感じで進行していた。ところが、石川のソロが入ってきたところから、まったく違う音楽をやっているのかと思うほど、雰囲気が変ってしまった。渡辺は普通かあるいはちょっと速めのテンポをとっていたのだが、石川は、かなり遅めのテンポをずっと維持している。チャイコフスキーのコンチェルトは、ソロが入ってくるとき、思いっきり遅く演奏し、序奏的な部分がおわると、テンポを通常に戻すような演奏が多いが、ブラームスは、そういうやり方をあまりしない。むしろ、前に書いたヌヴーなどは、勢いよく入ってきて、そのままエネルギーを保持するような弾き方をする。しかし、石川は、とにかく遅めのテンポではいってきて、主題を奏する部分になっても、そのままの、かなりの遅めのままだ。ところが、ソロバイオリンがなく、オーケストラだけの部分になると、また渡辺テンポにもどって、そんな遅く、まだるっこしいのは嫌だ、というような雰囲気で、さっと済まして、再びソロが入ると、遅いテンポにもどる。石川が弾いている部分は、ゆっくり目というよりは、かなり遅いので、普通の演奏よりは、かなり長い時間をかけて、第一楽章が終わり、その最後の音が消えた瞬間に、一切にため息が漏れたのである。どうなるのことか、みな音楽を聴くより、ふたりの意地の張り合いがどうなるのか、破綻しないのか、はらはらしていたという雰囲気が、そのため息ではっきりと感じられた。

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木原問題と文春の思惑のずれ?

 最近の動きをみると、『週刊文春』が当初目論んだことと、展開が変ってきて、文春としても今後の展開をどうするか、迷っているのではないかと思われるのである。当初の目論見とは、当然木原氏のスキャンダルの追求であり、それは、おそらく、自民党内の反岸田勢力と結びついていたと考えられる。当時の捜査状況を正確に把握していた杉田氏と二階、菅氏が、岸田政権への打撃をあたえるために、捜査資料を文春に提供し、文春が裏付け取材をへて、報道に踏み切った。そして、それはかなりの効果をあげ、おそらく木原氏は文春の攻撃に耐えられず、辞任の意思をかなり強くしたところまで追い詰められた。
 しかし、事態は文春が想定した部分以外に波及し、文春は、岸田政権より協力が敵対勢力をうみ出してしまったのが現状なのではないだろうか。端的にいってそれは警察である。

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