教育や学習時間を固定する無理

 ヤフー・ニュースに、「多くの教職員が不満を抱いている、標準授業時数でがんじがらめに学校を縛ろうとする変わらぬ文科省方針」という文章を、フリージャーナリストの前屋毅氏が書いている。
https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/7545e90ecb7c2e16181faca07958c737f0aea037
 内容は題名でほぼわかるが、文部科学省が、学習指導要領で、各課目や全体の授業時数の上限と下限を決めており、それに従っていない学校を、教育委員会が公表したという事実を批判している文章である。こうした公表は罰であり、そもそも教育は、固定的な授業時数で効果があがるものではないし、また、学級の状態でどの程度の授業量が必要であるかは変ってくるのだから、固定的な時数を押しつけるのがそもそも間違いであるという主張を含んでいる。記事によると、日教組がそうした要求を文科省に対して行ったことが書かれている。

 この文章の趣旨には全面的に賛成であるし、そもそも日本の学校教育の内容があまりに多すぎるし、更に時数を縛るなどということは、教育の原則に反することなのである。
 この文章を読んで、ずいぶん前のことになるが、ピアニストのポリーニが来日したときに、テレビ番組に出演して、質疑応答に応じていたのを思い出した。最初は、コメンテーターのような人が質問して、それに対してはスムーズに回答も進んでいたのだが、その場にいる視聴者に質問が許され、そこである母親が、自分の子どもがピアノを学んでいるのだが、一日に何時間練習すれば上達するのか、という質問をしたのである。それに対して、ポリーニは、何時間すればいいというようなものではなく、個人差があるし、練習の内容にもちがって来るので、それに対する回答は難しいというようなことを答えたのだが、その母親はまったく引き下がることがなく、それでも何時間ぐらい練習すればいいというような線はあるのではないか、と追求するような口調で迫って来る。司会者が、ポリーニの常識的な回答を引き取って、治めようとするのだが、まったく応じる気配がなく、3回4回と「何時間ですか」と、まるで喚くように言っていた。テレビをみている私が、恥ずかしくなり、ポリーニに申し訳ないし、これが日本人の平均的な人間であるとは思わないでほしいと感じたものだ。
 ポリーニのいうように、練習とか学習というのは、何時間やればいい、というようなものではなく、その内容、学習者のレベル、そして体調、目的意識などによって効果はちがって来るものだ。しかし、それでも時間の規定がほしい人がいるものだ。
 文科省のやり方は、まさしく、この母親のようなことを、逆に権力をつかって、全国の学校、そして教師、子どもたちに強制しているのである。もちろん、行政として標準的な授業時数を提示することは必要だろうが、それに拘泥することなく、子どもたちの状況に応じて柔軟に、効果的な授業を行うように指導するのが、行政としての役割のはずだ。そうでなければ、教育効果などはあがらないのである。教育にとって、最もやってはならないことは、権力的な統制なのである。

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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