なぜ大谷・山本の勝利が消えるのか

 大谷翔平が先発し、5回をノーヒット無失点に押さえ、勝利投手の権利をえて降板したが、その次の6回に、あっという間に6点をとられて後続投手が大谷の勝利を消失させ、8回に大谷がホームランを打って同点においつくも、9回に変わった投手が失点、結局敗れてしまった。日本でのニュースは、大谷の「不運」よりは、50本塁打・50奪三振という記録がめだったが、私には、やはり大谷の勝利が簡単に消されてしまったことのほうが、強く意識された。打たれた投手がインタビューで語った内容がyoutubeにでていたが、「最後に頼るのは神だ」という発言にはびっくりした。これでプロスポーツ選手かと呆れてしまう。
 後半戦のドジャースの救援投手陣の酷さはつとに指摘されている。大谷を投げさせなかった監督が批判もされているが、その批判は、多少的外れであるように感じる。監督は、2度目の手術をうけた大谷の状態を考慮して、5回で変えるということは明確に決めていたというので、それはそれで納得がいく方針ではある。もちろん、手術をうけていない投手であれば、球数も少なかったから、もう一イニング投げさせるのが自然だろうが、やはり、長期的に大谷のことを考えたということについては、理解できる。しかし、逆に救援投手陣についての配慮を疑問に思うのである。救援投手陣が崩壊してしまうチームには、共通の特色がある。とにかく、短くつないで、毎試合多くの救援投手をつぎ込んでしまう、その結果、疲労が蓄積して、崩壊が起きるというパターンである。救援投手にも、先発投手と同様に、投げる間隔や球数にルールを設定して、それをきちんと守っているチームは、救援投手の崩壊が起きない。当たり前のことだし、監督であればそういうことはわかっているのだが、結局、試合展開のなかで、少しずつルールを破ってしまい、それが悪循環をおこすのだろう。ドジャースの現在はその典型なのだろう。
 しかし、どうも、それだけではないような気がしてならないのである。
 山本はそのまま勝利投手になって当たり前の試合を2回連続して、救援投手の失敗によって、勝利を逃した。そして、今回の大谷だ。アジア人選手に対する差別意識とまではいかないが、彼らのためになんとしても踏ん張って、勝利投手にしてあげようという意識が、他の投手に対するよりも、欠けてしまっているのではないか、と感じてしまうのである。
 今日のドジャースの試合では、後続がしっかりとおさえて勝利している。もちろん、山本や大谷の勝利をけしてやろうなどという意識があると言いたいわけではない。そんな意識はまったくないだろう。しかし、絶対に押さえるんだ、という意識が割引されるという感情はあるのではないか。投手は、打者に対して、本気をだす場合と、多少緩める場合があることは、普通である。大谷ですら、同様だ。投球のスピードに端的にそれは現われる。
 では、何故そんな感情になるのかと考えてみると、私のまったくの憶測だが、とりわけ日本のメディア(現地記者)が、あまりに大谷と山本を取り上げすぎるのではないかと感じるのである。記者会見で、ドジャースの選手に、インタビューの度に、大谷や山本のことを質問する。それがあまりに頻繁になると、いくら彼らを選手として尊敬していても、多少いいかげんにしてくれという気持がおきても不思議ではない。そうした感情が、とくに救援投手の「熱意」に微妙に悪影響をもたらしているのではないか、と危惧するのである。

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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