東京交響楽団のマタイ受難曲を聴いて、このブログに感想を書いたのだが、その後いくつかのマタイのCDを聴いた。そして、磯山雅氏の厖大なマタイの分析書も読んでみた。マタイ受難曲が、まだ好きになったわけではないが、これまであまり気付かなかった魅力を感じるようにはなった。しかし、最近の主流ということになっている古楽奏法については、私はあまり好きになれない状態である。磯山氏の著書には、当時発売されていた(廃盤のものを含まれているが)マタイの全曲CDについて、率直な評価が書かれている。その評価に、私はあまり納得できないというか、やはり感覚が違うのだと思ってしまう。
磯山氏は、古楽奏法を基礎に考えているので、そうでない演奏に対しては、やはり厳しい評価になる。もちろん、非常に固定的に評価しているわけではないし、そうでない演奏のよさも認めるのだが、古楽奏法が規準になっていることは間違いない。だから、古楽奏法ともっとも距離があると考えられているカラヤンのマタイ受難曲の演奏には、辛辣で、「こっけい」とまで書いている。
古楽奏法とは、その曲が作曲された時代の楽器、演奏法、慣習にしたがって演奏することとされている。もちろん、そういう演奏が、価値あるものであることを否定するつもりはない。しかし、それが演奏の規準であって、そうでない現代的な演奏は、間違っているかのような評価は、妥当なものなのだろうか。
その問題を考えるときに、作曲者が楽器の進歩に対してとっていた態度を考える必要があると思うのである。近年は、いわゆるクラシック音楽に使用される主な楽器は、安定した状態といえるが、バッハは当然として、モーツァルト、ベートーヴェン、ワーグナー、ラベルなど、楽器は17世紀から19世紀にかけて、大きな進歩と変化を遂げている。クラリネットはモーツァルトの時代に使われるようななった楽器だし、鍵盤楽器は、バッハ時代から19世紀末頃まで、大きく進歩・変化した。金管楽器はモーツァルトまでの時代と19世紀になってピストンが仕えるようになってから、表現範囲が格段に拡大した。つまり、古楽奏法で代表的なピリオド楽器は、現代の楽器に比較して、さまざまな面で制約がある。モーツァルトのホルン協奏曲を、現代のホルン奏者は楽々と演奏するが、モーツァルト時代のホルンで演奏することができる人は、限られてくるだろうし、そうした名人であっても、現代のホルンのように余裕をもって、きらびやかに演奏することはできないに違いない。
そして、大事なことは、そうした変化を作曲家たちはどうみていたか、ということだ。それはまず例外なく、楽器の進歩に大きな注目を払い、改良された楽器が発売されれば、直ぐにでもそれを試し、拡大された機能を使って、新たな作曲に挑戦していたということだ。
ベートーヴェンは、ピアノの発展にあわせて、作曲を拡大していった。ハンマークラビア・ソナタなどは、当時のピアノの限界を示していると同時に、未来のあり方を示したともいえるような作品だろう。モーツァルトは、ヘンデルのメサイアを当時のオーケストラの規模にあわせて編曲している。モーツァルト版メサイヤは古楽奏法による演奏よりは、ずっと大規模である。モーツァルトは、楽器や演奏形態の発展にしたがって、演奏だけではなく、楽器編成についても拡大することに同調していたということだろう。
マタイ受難曲のような規模の大きな曲は、現在演奏するなら、やはり通常のオーケストラの規模で演奏したほうが、ずっと聴き応えがあると思うのである。そういう意味で、私が聴いたなかでは、小沢の演奏がもっとも好ましかったし、カラヤンの演奏も、磯山氏の酷評にかかわらず、聴き応えがあった。アーノンクールは、通常古楽奏法では比較的速めのテンポをとるのだが、ゆったりとした部分が多く、これが古楽奏法による演奏なのか、と意外であった。もちろん、調律、弦楽器のならし方等々、古楽奏法にあったものなのだろうけれども、そのことが特に素晴らしいとも、私には感じ取れないのである。
ただ、大きなオーケストラによる演奏といっても、クレンペラーのあまりに遅い演奏には、とてもついていけなかったので、全曲はまだ聴いていない。
小沢の演奏は、当時の弓を使っての演奏ということだが、ビブラートをおさえ気味だが、やはり、現代の極めて優れたオーケストラと素晴らしい合唱を聴くことができる。バッハが聴いたら、満足し納得するのではなかろうか。