原口一博氏のネオナチ発言批判を考える

 原口一博氏が、ウクライナ政権をネオナチであるかのように表現して、日本はその背後にいるとした、と発言したとして非難されている。そして、駐日ウクライナ大使が批判しているとされ、原口批判がかなり燃え上がっているようだ。残念ながら、遅まきながら本日そのことに気づき、いろいろとチェックしてみたが、肝心の原口氏のyoutubeは削除されており、実際にどのように原口氏がのべたのかはわからない。こういう場合には、安易に削除すべきではない。削除すると、やはり、まずいことを書いたり、発言したのだ、と思われるからである。かつて、こうしたネット上の発言の削除問題については、かなり議論をしたことがあり、論争を闘わすのであれば、自分の発言にせよ、相手への削除要求にせよ、よほどのことがない限り、せず、発言を残しながら議論をすべきであるという立場だ。そういう意味で、原口氏の措置は残念だと思う。昨日のyoutubeでは、多少それに関する説明がでていて、ウクライナはネオナチだというのは、ロシアの言い方であること、アゾフ大隊には、ネオナチ的なひとたちがまざっていること、等がウィキペディアにでていることをいっている。そして、カナダでゼレンスキーが国会演説したときに、元ナチの人物が国会内にはいっていたと、批判をしていた。こちらは、ネオナチではなく、元ナチだというのが、原口氏の批判点だった。

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国会でも取り上げられていたジャニーの性加害

 一月万冊で、ジャニーズ問題は、実はかつて国会でも取り上げられていたということを聞いて、早速実物議事録を読んでみた。2000年4月13日の「衆議院青少年問題に関する特別委員会」での審議で、自民党の阪上善秀議員が、質問のなかでとりあげていたものである。https://kokkai.ndl.go.jp/#/detail?minId=114704582X00520000413&spkNum=21
で読めるので、興味のある人はぜひ読んでほしいと思う。
 週刊文春がとりあげていた時期のものだが、単に文春の記事を鵜呑みにしての質問ではなく、実際に知人の子どもがジャニーズ事務所に通っていて、いかがわしいことをされて(その子はたいしたことはなかったようだが)友達もたくさん被害にあっているという話しを、子どもたちが親に話していたという、その内容を元にして質問している。この質疑が、その後どのように扱われたかについては、少なくとも質問相手である警察や官庁では、ほとんどまじめにとりあげなかったことは、否定できないところだろう。阪上氏は、その後国会議員を落選し、市長などをやったあと、トラブルがあり、既に亡くなっているそうだ。

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文科省が大学再編・統合の方針?

 文科省が少子化に伴う大学入学者の減少という事態にたいして、再編・統合をうながす議論を進めるように、中教審に諮問したと報道されている。「文科相、大学の再編・統合を中教審に諮問 入学者数の減少見据え」(毎日新聞)
 18歳人口は22年で112万、それが40年には82万になるのだそうだ。進学率の上昇や留学生の受け入れが進んだとしても、その間12万5000人減って51万人になるという予想だ。

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五十嵐顕考察32 藤野先生(魯迅)

 五十嵐は、教育学の中核に「教育実践」という概念を常においていた。最初の論文集『民主教育論』でも、教育実践が、教育研究に先行し、また中核を占めることを強調している。しかし、他の概念もそうだが、五十嵐の教育学概念のなかで、「教育実践」がいかなる内実をもっているのかは、明確でない。少なくとも、常識的に考えられる教育実践よりは、広い概念であると考えられる。常識的に考えられる教育実践は、(私の考えに過ぎないが)教師が教室で行う授業実践が中核となるといえる。しかし、五十嵐は、そうした教師の具体的な教室における実践を、ほとんど対象としていない。教育財政学が専門だから、当たり前ともいえるが、具体的に教室で授業を見ることは、何度もあったはずであるし、また、自身が教授として、大学で授業をしていたのだから、そういうなかで、実践分析をすることがあってもよかったのではないかと思うのだが、私が見る限り、そういう教育実践分析の文章は、ほとんどみられない。

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ウクライナ情勢あれこれ

 ウクライナ情勢がかなり動いている。
 最も大きいことは、5月頃からはじまったウクライナの反転攻勢が、次第に実を結びつつあることだろう。当初はなかなか進展せず、反転攻勢は失敗するのではないか、という観測もかなり流れていたが、そもそも、十分に備えに時間をかけることができたロシアだから、そう簡単にそれを破れるはずもなかったし、当初遅々として進まなかったのは当然だった。そして、もうひとつ流れている説は、当初米英が作戦を指導していたが、それが通常行う戦闘機が主導して、陸上の軍隊がそれに従って進んでいくという方式だったという。しかし、援助側は戦闘機を提供していないのだから、そんな作戦がうまくいくはずがなく、ウクライナはそれに見切りをつけて、ウクライナ側の方式によって闘い始めた。そして、それが困難をともないながらも、次第に成功しつつあるというのである。

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港区の中学修学旅行 海外へ

 来年度から、東京港区の公立中学では修学旅行に海外にいくのだそうだ。私立高校などでは、海外の修学旅行はめずらしくもないが、公立の中学となると、これまで聞いたことがない。9月19日の毎日新聞の報道によると、都内では初、全国的にも珍しいという。しかし、このニュースには、いくつか驚くことがある。
1 24年度の港区の公立中学の3年生は760人しかいないそうだ。私の近所の市立の大規模中学では、一校一学年で、そのくらいの人数がいそうだ。いくら少子化といっても、ひとつの区の中学生の一学年の人数としては少なすぎないか。
2 生徒の自己負担は、おそらくこれまで積み立てているだろうが、それは通常の京都・奈良想定だろう。7万くらいなのだそうだが、当然、海外であれば、それではとうてい済まない。不足分は区が補填するという。
3 港区では小学校一年から「国際化」という授業があり、英語教育に力をいれているという。

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オーソドックスな舞台のフィガロ

 久しぶりにオペラの全曲を聴いた。といっても、3日がかりだったが。「フィガロの結婚」だが、映像としては非常に古く1973年のグラインドボーンのライブである。特に女性の主な役が、豪華で、この当時はまだ新人の域を少し出た程度だったが、のちには、同じ役で大指揮者と何度も共演しているメンバーである。スザンナのイレアナ・コトルバス、ロジーナのキリテ・カナワ、ケルビーノのフレデリカ・フォン・シュターデというキャストだ。他の女性役マルチェリーナやバルバリーナもすばらしい。男性陣は、少なくとも私は知らないのだが、女性陣たちに負けているわけではなく、いずれもすばらしいできだ。舞台が小さいので、余裕をもって歌えることもいい影響となっていたかも知れない。HMVでは残念ながら、購入不可になっているが、希望者はかなり登録されていた。フィガロ演奏のひとつの模範ではないかと思う。プリッチャードの指揮も、特別個性的なわけではないが、非常に自然なテンポで気持ちがよい。

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「鬼平犯科帳」がっかりする話3 敵

 「敵」は、主要な密偵の大滝の五郎蔵のお目見え話である。がっかりする話として紹介しているが、ミステリー的な話としてはよく出来ていて、とても面白い。あくまでも、長い「鬼平犯科帳」シリーズのなかに置かれたものとして、疑問点が多いという意味である。
 話は、岸井左馬之助が、友人の招待でいった越後・塩沢からの帰りの山道で、二人が激しく争っている場面に出くわす。大男の大滝の五郎蔵に若者が挑んでいる。若者(与吉)は、五郎蔵が父の敵だと信じ込まされて、敵討ちにやってきたのである。しかも、ふたりはどうやら盗賊だと左馬之助は察するのだが、若者が、「自分は盗賊改めの狗だ」と名乗る(これははったりで事実ではない)ので、見捨てることができず、若者が殺害され、五郎蔵が急いで江戸に出発する前の盗人宿にもどっていくのをつけ、番人と話し込む内容まで盗み聞きしてしまう。そして、翌日は、五郎蔵を見張り、江戸までもどって、逗留先をつきとめて、すぐに平蔵に報告する。

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五十嵐顕考察31 民族の独立という問題

 五十嵐は、教育行政のいわゆる反動化、逆コースといわれる時期をすぎると、民族の独立問題を重視するようになる。それは、日本がアメリカの統治から独立したにもかかわらず、平等とはいいがたい安全保障条約を結び、日本各地に米軍の基地が残り、真の独立が達成されていないという認識から、対米従属からの独立という政治課題を重視したからであろう。そして、それに留まらず、戦後、植民地状況から独立を果したアジア・アフリカの独立、そして、民族自立を議論の柱のひとつとするようになる。そして、その中心が、中国と北朝鮮であった。五十嵐を含む教育関係者が、中国を訪れ、各地の教育関係者や子どもたちを交流をかさねたのは、1961年である。そして、五十嵐は、教育財政の専門家という立場から、社会主義国家における教育の機会均等や教育費の問題を論じている。

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日本人の労働の無駄?

 ロシアによるウクライナ侵略から日本に逃れてきたウクライナの女性のyoutubeをたまたま見た。そのなかで、興味をひかれた部分があった。日本にきて、1年半といっていたが、全編日本語で説明され、多少不自然なところがあったが、すべてきちんと意味が通じる言い方だった。1年半でこれだけマスターできるのだから、かなり頭のいいひとなのだろう。そういう彼女からみて、日本の企業での働き方に、不満があったという。不満というよりは、批判といったほうがいいかも知れない。
 それは、ウクライナ人は、今日しなければならない仕事を、一日の労働時間である8時間内に終わって、時間があまったら、翌日の仕事をする。しかし、日本人は、8時間内で終わるような仕事を、8時間に引き延ばして遂行する一方、残業はやたらと多いというのだ。
 一日の仕事を超えてするのだから、当然、一週間単位では、かなりの仕事量をこなすことになるのだが、その結果については、詳しい説明がなかったが、おそらく、それだけ賃金が余分に支給されることになるということなのだろう。ウクライナ人の合理的な働き方を説明していたから、決められた量以上の仕事をしても、賃金が同じであれば、合理的な働き方とはいえないからだ。

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