オザワキネン音楽祭の継続は

 サイトウキネン音楽祭には、以前何度か聴きにいった時期がある。ロ短調ミサ、ファウストの拷罰、オペラ夕鶴、ベートーヴェンの5番などだった。ロ短調ミサとファウストの拷罰は、リハーサルと本番両方を聴いたので、とても印象に残っている。ファウストの拷罰では、出だしのビオラの音の美しさにびっくりしたものだ。
 ところが、小沢征爾が亡くなったことで、俄かに音楽祭自体が危機に瀕しているようだ。現在では、オザワキネン音楽祭ということになっているようだが、サイトウキネンを小沢が担ったような指揮者、指導者がいないということが、最大かつ唯一の理由といえるだろう。サイトウキネン音楽祭は、世界的な音楽祭ではあるが、他の世界的な代表的な音楽祭と比較すると、いかにも特殊な、ぜい弱な音楽祭であるといわざるをえない。 “オザワキネン音楽祭の継続は” の続きを読む

高市氏の自民党総裁当選を考える

 自民党総裁選で高市氏が当選して、おそらく内閣総理大臣にも選出されるだろう。なぜ、高市氏が当選したのかという政治的な分析は、私にはできないし、多くの人がだされているので、そちらにまかせるとして、この間の選挙報道に関連して、いくつか感じたことを書いておきたい。
 まず、第一に、最近あまり見ないのだが、youtubeの「一月万冊」では、何人かがそれぞれ語っていたのだが、私の見たかぎりでは、すべての人が、高市当選は絶対にありえない、状況からみて「ない」と断言していたことである。とくに、佐藤章氏は自信満々の調子で、自分の収集した情報では、「ない」と何度も語っていた。さまざまな情報をみると、小泉有利だが、高市が追い上げているということもずいぶんいわれていた。それなのに、「一月万冊」では、「情報から判断して」という形で予想していたのである。 “高市氏の自民党総裁当選を考える” の続きを読む

宅配は置き配を原則に

 最近は宅配を利用することが、どの家でも多くなっているに違いない。我が家でも、かなり頻繁に利用している。そのとき、いつも思うのが、不在のときの措置だ。これは受け取り側も届け側も同様に重要だろう。以前は、不在のときには、荷物を持ちかえって、後日配達か、あるいは受け取り側から連絡して、可能な時間を指定するということが多かった。JPの場合は、私は後日自分で郵便局に取りにいく。 “宅配は置き配を原則に” の続きを読む

高校の授業料無償化を考える(4)

 しばらく間があいてしまったが、今回はこのテーマによる最終回である。
 私立学校と公立学校の関係が、これまでの、そして多くの国でそうであるように、公立学校は国家の設置する学校で、万人用の教育を行い、私立は公立学校とは異なる教育を行うための、特別の学校であって、公立は国家によって費用が賄われ、私立は利用者が負担するというシステムである。現在の日本に限らず私立学校に公費補助がなされる国も少なくないが、しかし、まったく平等というのはオランダに限られる。
 では、どういう関係が好ましいのか。 “高校の授業料無償化を考える(4)” の続きを読む

ショルティ・シカゴのマーラー5番

 ちょっと風邪気味で寝ていたのだが、youtubeを見ていると、偶然ショルティ指揮のシカゴ交響楽団によるマーラー5番の映像が出てきたので、全部聴いてしまった。寝ながらのイヤホンなので、音はまったくよくなかったが、いろいろと興味深いものだった。
 半月ほど前に、私が所属する市民オケでもこの曲を演奏したのだが、練習の合間に話題になったのは、第3楽章でソロのホルンが目立つにような位置取りをして演奏するのが多いが、いつからそうなったのだろうか、ということだった。私がライブのこの曲を4、5回聴いていたのだが、80年代以前で、ずいぶん前のことで、ホルンを立たせたり、前にだしたりはまったくしなかった。私が知っているかぎりでは、ラトルがベルリン・フィルの音楽監督になった最初の演奏会で、マーラーの5番を演奏したのだが、そのとき3楽章でホルンの首席を協奏曲のソロの位置、つまり指揮者の横に立たせて演奏させていたのが、最初であった。その映像をみてびっくりした記憶がある。その後、前に立たせることはあまりないとしても、特別な位置にたって演奏するのは、なんども映像でみた。私たちの演奏会では、座って演奏したが、それでも、時間をとって、木管のフルートの位置あたりまで出てきて、特別感をだしていた。 “ショルティ・シカゴのマーラー5番” の続きを読む

アドバの「フィガロの結婚」ライブ映像がついにBDに

 予約注文していたアバド式の「フィガロの結婚」のブルレイ・ディスクが今日届いた。これはずっと発売を待っていた映像だった。HMVの書き込みでも、要望として書いたことがあった。おそらく、私と同じように発売を渇望していたひとがたくさんいたに違いない。LDで発売されたのをずっと見ていたのだが、DVDやBDではまったく発売されないできた。1991年のライブ映像だから、すでに30年以上たっている。不思議なことに、ドイツ・グラモフォンからコンプリートまででており、また映像ソフトも多数でているのに、なぜかモーツァルトのオペラ映像は、これまでまったく出ていなかった。ドン・ジョバンニは2種類の映像があるし、コジ・ファン・トゥッテ、魔笛も映像がある。テレビでの放映はされているのだから、発売をアバドが許可しなかったとも思えないのである。 “アドバの「フィガロの結婚」ライブ映像がついにBDに” の続きを読む

火葬場のこと

 今日の羽鳥モーニングショーで火葬場問題をやっていた。東京23区の火葬場は公営が2つのみで、あとは民間だというのだ。そのために、他の通常の公営に比較して火葬費用が非常に高い、小池知事がなんとかすべきという方針をだしたということで、火葬場の現状について、議論をしていた。アメリカの葬儀などと比べると、日本は非常に複雑な構造をもっていることが、再認識される。ドラマや映画の話なので、どこでもそうなのかはわからないが、アメリカの葬儀というと、土葬される場所に、神父(牧師)がきて祈り、そして、設定された場所にお棺ごと埋められるという場面がほとんどだ。 “火葬場のこと” の続きを読む

東京交響楽団のマタイ受難曲を聴く

 今日、東京交響楽団によるバッハ「マタイ受難曲」を、ミューザ川崎コンサート・ホールで聞いてきた。2時開始で終了が5時半という、オペラなら普通だが、合唱曲とはいえ、定期演奏会としては、異例の長時間の演奏会だった。ミューザ川崎は、初めていったのだが、以外と便利なので、これからもたまにいくかも知れない。このホールは、響きのよいことで有名で、日本で最もよいという演奏家の声もある。席がよかったせいもあるが、とても心地よい響きだった。
 ジョナサン・ノット指揮、カタリナ・コンラディ、アンナ・リヒター、ヴェルナー・ギューラ、ミヒャエル・ナジという外国人歌手に、桜田亮、萩原淳、加藤宏隆の日本人歌手、合唱は東京交響楽団専属の合唱団と東京少年少女合唱隊が参加していた。 “東京交響楽団のマタイ受難曲を聴く” の続きを読む

高校授業料無償化を考える(3)

 私立学校と公立学校は、本質的に違うものなのだろうか。法的には明確に区別されているけれども、教育の実態はどうなのだろうか、と考えると、私には、本質的な差はないとしか思えない。私立学校の教育は確かに多様である。しかし、公立学校も同質などとはとうていいえない。通学区によって通う学校が規定されている公立の小中学校でも、その差はかなり大きいのである。通学区を指定して、通学する学校を選択できないようにしている理屈は、教育の水準を一定に保つことによって、どの学校に通っても同じ教育が受けられる、というのがあるが、そのようなことを信じているひとはいないだろう。 “高校授業料無償化を考える(3)” の続きを読む

高校授業料無償化を考える(2)

 授業料問題は、義務教育と義務教育以外、そして公立学校と私立学校の問題というふたつの異なった側面がある。日本での高校無償化は、この二つがともに重なっている問題であるが、原則的なレベルで分けたの議論は少ないように思われる。
 さて、義務教育での無償は、論理的にも、また、国民の納得という意味でも当然の措置であろう。日本の場合には、義務教育での無償が、授業料の不徴収という内容にごまかされおり、本来、というか先進国ではほぼ常識となっている学用品等の無償まで含むものになっていない。教科書は無償であるが、これは無償とすることによる国家統制の手段となっている。したがって、無償=公費の支出、だから、公費を管理する行政の管理が必要という論理の是非が問われねばならないという論点が残っている。しかし、今回はこの問題には触れない。 “高校授業料無償化を考える(2)” の続きを読む