五十嵐顕考察20 戦争責任問題1

 五十嵐は戦争責任について問題にし続けた。しかしその重点は変化した。
 当初は戦前の軍国主義への批判であった。専門の財政学の観点でも有効な批判をした。たとえば義務教育費の国庫負担をしたとき、あわせて思想取り締まりの部局を文部省は設置した。これは国家が必要な政策をとりつつも軍国主義を進めるという両面の事実を指摘する優れた分析だった。当初、地方に義務教育の費用までも負わせていたのを、調整という合理的な目的があるにせよ、国家が補助をするという形をとって、教育費を国家管理するようになり、そのことによって、国家の観点から重視したい分野に多く配分できる体制を構築していったわけである。思想局を設置するというのは、極めて例外的な、しかし露骨な教育費を媒介にした国家統制であった。そうした財政の流れを的確についていたわけである。

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ウクライナのダム破壊はだれが 舛添氏の議論

 舛添要一氏が、ウクライナのカホフカダムをウクライナとロシアのどちらが破壊したのか、について、論文を書いている。「【舛添直言】ウクライナのダムを破壊したのは誰か、双方が情報操作で火花」
 結論をいえば、どちらとも断定はできない、わからないというべきだというのだ。そして、そのあと、この戦争は激しい情報戦が行われており、どちらの情報も自軍に有利なように、嘘・でたらめを平気で流すのだということを、断定できないことの補強としてだしている。その例として、ノルドストリームとノルドストリーム2のパイプラインが損傷したことをあげている。この事例では、ほとんどの日本人は、ロシアがやったと信じたが、実はアメリカがやったという説がでてきて、アメリカは公式にはその説に対してコメントしていない。だから、ロシアではなくアメリカと考えられるのだというわけだ。そして、全体のニュアンスとして、そのパイプラインの例によって、ダム破壊もウクライナがやったのではないか、と言いたげなのだが、結論は先述したように、「わからない」である。しかし、「わからない」と主張するために、文章をわざわざ書くのだろうか。私のような勝手なブログではなく、列記とした商業的な場である。
 
 さて、パイプラインの件だが、日本人はほとんどがロシアがやったという説だったというが、私は、結論的には、ロシア説に傾いていたが、若干ではあるが疑問を呈した。

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0歳児の保育・育児

 保育園で、0歳児にすりリンゴを離乳食をとしてあたえたところ、そのあと昼寝中に死亡する事故があった。その事故関連のことではなく、その際に考えたことがある。
 近年は医療の発達で、以前なら死亡してしまう人が、赤ちゃんであれ、高齢者であれ、死なずにすむことが多くなっている。だから、0歳児が死んでしまうことは、滅多に起きないが、実は、数十年前までは、生後1年未満で亡くなる子どもは、少なくなかったのである。私が子どもの頃住んでいた家のとなりは、ある会社の社長が住んでおり、とても豊かであったし、長男は健康優良児のコンテストで入賞したような赤ちゃんだった。しかし、一歳になる前に、死んでしまったのである。事故ということはなかった。おそらく、自然の摂理として、弱い子どもは0歳までで亡くなり、1歳の壁をくぐり抜けた者は、長く生きられるというような自然の仕組みがあったのかも知れない。医療は、その壁を人為的にかなり破ったのだといえる。
 しかし、そうはいっても、0歳がまだまだ安定した状態ではないことは、まちがいないのではなかろうか。

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リチャード・ボニング 評価されない指揮者だが

 国際的に活躍している、あるいはしていた指揮者は、ほとんどが熱烈なファンがいるものだが、リチャード・ボニングが好きだという人は、あまり聞かない。というか、まったく聞いたり、読んだりしたことがない。そして、CDの批評でも、ボニングの指揮を誉めたレビューはほとんどなく、指揮者がボニングでなければ、名盤になっていたのに、というようなレビューすらある。経歴をみても、オペラ指揮者ではあるが、有名オペラ劇場の音楽監督になったことはないようだ。しかし、オペラファンには名前はよく知られているし、また、CDの録音も多数ある。だから、レコード会社からは、有力指揮者として遇されていたことはまちがいない。
 では、なぜ、評価が低く、また人気があるとはいえないのか。そして、本当に実力のない指揮者だったのか。

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遊びは権利か? 2

 では、遊びは権利ではなく、何なのか。それは、通常の人間がだれでももっている欲求であるから、欲求を満たすために、だれでも自分の意思で行うものであり、権利・義務関係とは無縁であるべきだということだ。遊びの定義は、いろいろとあるが、私なりにまとめると「自分のやりたいことを、自分の意思で(他人からの誘いからでもよいが、最終的には自分の意思で)行うこと」である。仕事と別に考える必要もないし、そのことによって、リラックスできること、などでなくてもよい。多くの人にとっての理想は、遊びを仕事として、それで生計がたてられることだろう。ニューヨークフィルの常任をおりて、フリーとして主にヨーロッパで指揮活動をするようになったバーンスタインは、自分の指揮活動は、すべて遊びだ、だから、ギャラはすべてアムネスティに寄付する、といって、アムネスティに振り込むようにさせていたという。「ウェストサイド・ストーリー」で一生贅沢をして暮らせるだけの資金を獲得しているので、やりたいことだけを指揮者としてやる、ということだった。

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遊びは権利か 『教育』の特集に関して1

 『教育』2023年6月号の第二特集は「子どもの権利としての遊びと越境」となっている。前々から、あまりに「権利」という言葉が安直、不明確に使われていることに危惧の念をもっているが、「遊びは権利だ」などといわれると、それは違うのではないかといわざるをえない。
 「子どもの権利条約31条と日本の子どもの生活・遊び」と題する論文で、増山均氏は、「子どもの権利条約」を基準にして、権利としての遊びを主張していて、日本の現状がそれとほど遠いと批判している。
 子どもの権利条約31条とは「締約国は、休息及び余暇についての児童の権利並びに児童がその年齢に適した遊び及びレクリエーションの活動を行い並びに文化的な生活及び芸術に自由に参加する権利を認める」というものだ。しかし、増山氏はこうした考えに、日本人は違和感をもつ人が多いとしている。

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フェミ科研費訴訟の部分勝訴はしたが

 「フェミニズム研究などに関わる大学教授ら4人がインターネット上で中傷を受けたとして、自民党の杉田水脈衆院議員を相手取った損害賠償訴訟の控訴審判決が30日、大阪高裁であり、原告側が一部勝訴した。(毎日新聞2023.5.30)」と報道された。従軍慰安婦に関して、捏造だ、ということと、科研費を不正に使用したという発言に対して、科研費をうけて研究をしていた研究者たちが、提訴したものだが、昨年、大阪地裁での判決があって、その一部修正判決ということであった。地裁判決では、原告の訴えをまったく認めず、完全に原告が敗訴して、控訴していたものだ。そして、報道によれば、控訴判決が修正した部分は、科研費を不正使用したという部分の名誉毀損を認めたことで、その部分に関して損害賠償を認めたものである。逆にいえば、研究内容に関して、非難、批判、誹謗中傷したと原告が考える部分については、「論評」の範囲であるとして、名誉毀損を認めなかった。この点については、原告は不満であり、かつ危険であるとしている。

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スポーツマンシップは死語に? 全仏テニスの裁定

 大学院時代からしばらくは、近くのテニスクラブやテニスコートでテニスをしていたので、4大大会などをテレビでよくみていたが、転居してからすっかりテニスからは遠のいてしまった。だから、あまり見なくなっていたが、全仏の加藤失格問題には驚いた。ダブルスの試合中、相手側にボールを返したときに、そのボールがボールガールの頭部にあたって、審判は警告をしたのだが、相手の選手が、それに対して抗議をして、ボールガールが泣いている、そして血がでていると主張して、結果的に、加藤組が失格になったというものだ。日本での報道だから、すべて正しいかどうかはわからないが、その処分に対して、猛烈な抗議が寄せられ、テニス協会も処分の撤回を求めているし、本人も訴えているという。この場合の撤回を求めている処分とは、それまでの全仏での勝利による賞金と獲得ポイントを没収するというものだ。試合を再度やりなおすというのは、非現実的なのだろうが、獲得賞金とポイントはもとに戻すことができるから、当然の主張であろう。
 
 多くのひとと同じことになるだろうが、驚いたことが3つある。

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激変しつつあるウクライナ情勢

 ウクライナ情勢が、動きつつある。いろいろと変化がでてきた。その多くは、いい徴候だ。
 バフムトで、ウクライナが少しずつロシア軍を後退させつつあるようだ。ここはロシア軍が大量に兵力を動員して、守ろうとしているところだから、簡単にいくとは思えないが、三方から包囲して、ロシア軍を囲い込んでしまおうという作戦が、少しずつ前進しているようだ。ワグネルは、そうした動向を早く察知したために、おそらく逃げたのだろう。そして、一方、現政権に反抗しようとしている雰囲気がでている。ワグネルが退却しているところに、地雷があったということで、ロシア兵を捕らえたと報道されている。ロシアのもっとも精鋭であるワグネルが、ロシア兵を捕らえるというのは、もちろん、重大な変化がおきていることを示している。
 
 ウクライナに協力するロシアの義勇兵たちが、ウクライナから国境をこえて、ロシアに侵入し、第一回目はすぐに引き上げたが、二回目は、留まっているようだ。そして、まだ小さな地域とはいえ、占領したといわれている。プーチンは、こうした動きを国民に悟られなたくないので、沈黙を守っていて、有効な反撃態勢をとらないでいるようだ。それはモスクワ近郊へのドローン攻撃についても、似たような反応をしている。

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大学での全盲学生の学習保障

 私が定年退職した大学の学科に、今年度全盲の学生が入学したということ聞いた。どのような支援がなされているかはわからない。だから、以下書くことは、現状批判とかそういうものではなく、こういうことが必要ではないか、と私が思っていることを書くだけだ。私が在職していたときには、他の二学部に全盲の学生が在学した。最初は文学部で、受け入れに教授会は猛反対だったというが、志望学科のある教授が、自分が全部責任をもつからということで説得し、受験が認めれ、合格して入学したという経緯があった。そして、その教授が、テキストの点訳などを自分でしたかどうかは正確に知らないが、とにかく、責任をもって実施したということだった。4年間、本当にたいへんだったと思う。もちろん、学生の支援はあったろうし、そのうち、教授たちの協力もできたに違いない。他学部であった私たちには、教育上はなんの関係もなかったが、キャンパス環境に対して、非常に大きな影響があった。それまで、キャンパスは、たいした広さではないが、通学や部活の離れた運動場にいくために、自転車に乗っている学生が非常に多かった。そして、無造作に自転車をあちこちに放置していた。とくに、校舎の入り口には多数の自転車がとめられ、とても危険な状態だった。健常者でも危険なのだから、全盲のひとにとっては、命懸けで校舎にはいるような気持ちだったかも知れない。そこで、大学として、学生たちに訴え、また、自転車置き場を広めに設置して、そこに自転車をとめるように、厳格に指導した。そのために、キャンパスはすっかり歩き安くなった。障害者のために行う施策は、一般的な普遍的な有用性をもつ、と実感した体験だった。その後教育学部の音楽専攻に入学したひとが複数いたが、音楽なので、耳のよい全盲学生は、かなりうまく適応していたようだし、支援もスムーズだったようだ。

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